2014年2月12日水曜日

新天地、新天地イエス教の信じる事と信仰

に正しく知りましょう。聖書と新天地

この容は教会や聖徒の信仰知識のために公益的な目的で聖書を根として書いたものです。
また、この容は教会や聖徒たちの信仰のため「あなたがたは、正しいことは正しいと、正しくないことは正しくないと言いなさい」と仰せられたイエスの御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。



新天地イエス教の信じる事と信仰
 
その実によって彼らを見分ける。(マタ 7:15-20)
その仕業に応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれる。(黙20:1112
 
聖書に通達している新天地12支派の人々は信仰世界に対し悪を行ってはいない。しかし、罪がないと言う意味ではない。罪はイエス様を信じることで贖われたからだ。聖書が示している勝利者(聖書に約束された牧師)は天から降りた書物を受け取り、指示通り御言葉を代価なしで伝えた(黙10章、黙22:17)。 
 
何故、この御言葉が間違っているといえるだろうか。飢え乾いている人に食物を差し与えることが誤りでないのと同様、枯れた魂に永遠なる命の水を注ぐことがどうして異であるのか。 넘치는 신천지증거장/561;성전!)
 食べることに困り果て、自分の家族に何も食べさせてあげられない人がいる。何も食べていないその家族に誰かが値打ちのある食べ物を食べさせたとするならば、その誰かに感謝する気持ちを抱くはずだ。でなければ、自信を恥ずかしく思うべきである。しかしながら、自分の言葉が神聖であると言いながら、価値ある食べ物を与えている人を異端であると言って隔てさせ(イザ65:56)、その、神様の御言葉を嘲る行為を行う。この様な人々がどの様にして救われるといわれるのだろう。 )
 
盲人が盲人を導いている(イザ29:914、イザ42:1820)といった姿が今のキリスト教世界の現実ではないだろうか。聖書を知る人も存在せず、神様の御心を理解できる人も存在しない。加減することの出来ない黙示録の預言に対してでさえ、何か意識を知り得たいという気持ちも抱くことはしない。このような現実の中、新天地は神様の御国である12支派を立てている(黙7章)。祝福の根本であられる神様が共に居られる韓国は祝福のある国である。
 

  天下の牧師たちは素直に悔い改め、自分の無知を神様に告げ、天から降りてきた啓示を受け取って、飢え乾いている自分達の民に食べさせ、救われるようにしよう。6千年間、神様が送られた使者たちの悪口を言い、迫害をし、葬り去ることはもう止めて、これからは主に祝福を祈るべきである。

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