本当に正しく分かりましょう。新天地
この内容は教会や聖徒の信仰の知識のために公益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真の信仰のため「あなたがたは、正しいことは正しいと、正しくないことは正しくないと言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
イエス様が十字架を背負われた目的
イエス様が十字架を背負われた目的は大きく二つある。一つは人の罪をあがなうためであり(マタ26:28、ローマ6:6~11)、もう一つは罪のない人に神様とイエス様が来られて一つになるためであった(使2:36~38、ガラ2:20、ローマ8:9~11)。イエス様が十字架を背負われる前は御霊が未だ彼らに来られず(ヨハ7:38~39)、イエス様が十字架を背負われた後、息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と仰った(ヨハ20:22~23)。
また、イエス様が昇天される直前、弟子たちに約束されている御霊のことを待ちなさいと仰って、御霊を受けてから地の果てにまでわたしの証人となりなさいと仰ってから昇天された(使1:4~8)。 そして、彼らは五旬節に約束の通り御霊を受けた。そして、福音を宣べ伝えた(使2:1~4)。これはイエス様が弟子たちの罪の身代わりとなって十字架を背負われ、罪を贖われたので罪によって離れて行かれた御霊が罪のない人に再び臨まれたことである。私たちの罪のために十字架を背負われたイエス様はどこに住まわれるのか?次の約束されている聖句を見て信じよう。
(ガラ
2:20)
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
(ヨハ14:20)その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
(啓
3:20)見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
(ガラ
4:6)
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
(ローマ8:9-11)
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない/もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである/もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
(1コリン3:9)わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
(1コリン
3:16)あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
(啓
20:4)また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし、神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
イエス様は聖書に記録されている通りに罪を贖われた後、私たちの内に住まわれるのである。これが十字架を背負われた目的であり、私たちの望みである。聖書の御心についてよく分からなかったりキリスト教徒でない人が聖書についてああだこうだと言うのは大きな間違いである。このような人々は聖書に対して言う資格がない。
御霊を受けて、見て、聞いて聖書を通達してから証しをすべきである。我らの救いである誇らしい十字架の真意を知ったことに感謝するでしょう。
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