2014年2月18日火曜日

新天地、宗教と現実


 が暮らしている地球では、キリスト仏教、ヒンズー教、イスラム、儒などの宗がある。そして、それぞれの典が存在する。しかし、に自分の宗典に通達し、それをえる場所は存在しない。書のことを全て理解できない故に、悟りはなく、悟りがない故にその御心にする真実の信仰がないのだ。
  普通の道人が待ち望むこととは、東洋の先知書からむと『「正道令」 や宗の主人である天神であるが、我の望んでいることは理の御である。』(ヨハ15:26、ヨハ16:13)とある。
「正道令」とは理の御、即ち正道の御のことである。しかし、理の御られても、イエスが言われたように(2章、3章)御の言葉を聞くような耳がなければ聞いても、御心を正しく分かる術はない。

 典では、理の御である助け主を送る容について約束されている(ヨハ14:2526、ヨハ16章)ため、我の信仰人は彼のことを待つしかない。約束された理の御、助け主がられて証しされるまでは、誰も正しい道(正道)をえることは出ない。

  我新天地イエスでは、マタイの福音書24章だけを使って末世論と話したことはない。それにもわらず、私達がマタイの福音書だけを使った末世論のことを話していると押し付け、それを理由にして異端と呼ぶ。
初臨の頃を考えてみよう。約聖書 イザヤ29913節の通り聖書は封じられた本であり、誰も聖書のの意味を知らない。牧師達はまるで目をつぶった盲人のようになっている(イザ42:1819、マタ15:14考)。この時にイエスられ、封じられた書物を開き、その御言葉(啓示の言葉)をえ始める。そして、その時、人の戒めだけで聖書を理解していた者達がイエスを異端だとし魔にしたてさせた(ヨハ8章)。このように今日、理の御である助け主がられ、ヨハネの5章で封じられた書物を開き、人を通して証しているので、その本の御言葉(啓示)を見たことも聞いたこともない者達がその御言葉やえている人を異端視するようになっている。しかし、神とイエスの約束してくださった事とは、理の御である助け主と神の書物である啓示の御言葉である(ヨハ 14:1626、マタ11:2710章)。

 新天地イエスは約束された理の御である助け主がられ、正しい道(正道)をえている。誰も迫害するより先に、啓示の御言葉を聞き聖書で確認してみると悟るようになるだろう。悟って信じる者には、福の中でも一番の福がえられる(ヨハ14:291:13考)。




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