本当に正しく知ろう。新天地
この内容は教会や聖徒の信仰の知識のために公益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真の信仰のため「あなたがたは、正しいことは正しいと、正しくないことは正しくないと言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたものです。
主の戒め、信仰と行い
神は愛である。(1ヨハ4:16) 審判は自分の行いによって書物に書かれてある通り受ける。(啓20:12)
神様は罪人たちを愛してひとり子を賜った。(ヨハ3:16)息子のイエス様は罪人たちの友達で、罪人のために代わりに十字架につけられた。(マタ9:10~13)
「あなたはそこの立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と言った人に神様は「黙っていないで報い返す」と仰せられた。(イザ65:5~6)イエス様は「敵を愛し、敵が飢えていると糧を与えなさい」と仰った。(マタ5章)
神様とイエス様を信じる私たちは神様のように、イエス様のようにその約束を守る人が正しく信じる人だと思う。口では信じると言っているけど、その行いが主の戒めと合わないのなら、信じる人ではないのだ。
主が禁じた迫害や批判、数え、殺人、呪いに明け暮れているゼミなんかが本当に主の御心だと思うのか?1990年以来、キリスト教世界は迫害したせいでキリスト人の約三分の一の数が減ったことを何故気づいてないのか。それは新興宗教のせいなのか。新興宗教もキリスト教で、イエス様のことを信じる所だし、そもそも以前の教会が腐っているから新興宗教が出来たのではないのか?
もし、新興宗教が異端だったら、改新教もカソリックに戻るべきで、カソリックもユダヤ教に戻らなければならないのではないのか?誰でも善行で神様とイエス様の仰った契約を守って、信じて、従順する者は教団と関係なくキリスト人になるのだ。(ヨハ1:12~13)
キリストの御霊のいない人はキリスト人ではないし、主の戒めを守らない人はキリスト人ではない(ローマ8:9~11)からである。迫害をし、呪うのより命の御言葉を教え、信じるようにし、お互い許しあい、愛する人が神様の御心通り行う人である。(1ヨハ4章)
キリスト教は一つにならなければいけないし、約束の御言葉を信じ、御言葉の中に入らなければならない。
キリスト人同士で戦ったり、呪うことがなくなるとキリスト教は復興が出来、世の光になれると思う。
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