2014年2月18日火曜日

新天地、新天地人になったプライド

新天地人になったプライド
 
新天地で印を押された聖徒たちは、世の中が未だに悟っていない聖書を通達したというプライドと信仰を持っている。

の印を押されている新天地は、罪を犯したアダムの世界を審判してから再び立てられたノアの世界と同、また、罪を犯したノアの世界であったカナンが審判されてから立てられたアブラハムとイサクとヤコブの世界、まさにモセの世界と同じであり、肉的なイスラエルの立法と先知者と預言を終えてから立てられた的なイスラエルやイエス12弟子の世界と同じである。
今日、的な新しいイスラエル12支派として創造された新天地人は新しい契約通りに神の法(御言葉)を思いと心に刻み、印を押されることで罪を贖われ、神の民になり、神は新しい契約を守っている新天地の神になった。(へブ8713)新約聖書の通りに創造される神の創作物に傷をつけるためにを作り出し、知れ渡し、邪魔をする者は神から罰を受けるようになり、火と硫の燃えている池の中が、彼らが受けるべき報いであると218節に記されている。
 
は、愛、喜び、平和、容、慈愛、善意、忠、柔和、自制である。(ガラテヤ52226)また、真実と約束の御言葉と信仰故に、私たちは御で生きるために御で行うべきである。
 
● 新天地人たちの信仰
新天地人は新約のイエスの約束なさった契約の御言葉、即ち一つの時代(第一幕屋)が終わり(6章)、イエスの血で買ったと祭司長とそれから血で罪を贖われた白い衣を着た群れ(聖なる第二幕屋の時代)の創造を信じる。(59107114)新天地人は5章と7章と14章での穫された初である。このとは月ごとに12種のを結ぶ命の木のであり、理の御言葉から生まれてきた人である(ヤコブ1:18)。12種のを結ぶ命の木は今日創造されている新天地12支派である(22:15)。モセの時代、エジプトの人はモセを通してわった神の御言葉を信じなかったが、アブラハムの子孫であったイスラエルは信じた。今日も神の種から生まれてきた人は神の約束である新約の御言葉を信じるであろう。
 
● イエス様の十字架と私
 
新天地人「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラ2:20)」

人の心は神の御言葉を受ける畑であり、神に仕える家(聖殿)である(1コリン3:91617)。光と生命であられる神は人の罪のために行き去って(創6章)離れていかれたので、再び、全てのものにおいて全てのものになられようとされた(1コリン15:28)。

イエスが十字架に架かり、人の罪の代わりを背負ってくださったことで、わたし達の罪は贖われ、神と敵であった私たちを愛でもう一度、神と一つになることができるようにして下さった。その証となるのが、イエスが十字架につけられてから御が人にられたと言うことである(ヨハ7:3739、ヨハ20:2223、使1:482:14)。
 
イエスが十字架につけられたことで、十字架の代贖の血を信じて、罪を許された人の中に神とイエスは共に在られる(ロ8:911、ガラ4:6、ヨハ14:203:20)。
は、罪のないイエスの中に在られたように、の時(5:9107章)にも、イエスを信じる者の中に居られる。この時、初臨のように魔の神の中にいる者がイエスと共にいる人を迫害するようになる。それは、彼らを主する各の神が異なる故である。この時、神している者は神の言葉を遣い、世の中にしている者は世の言葉や自分の言葉を遣う( 1ヨハ4:56)。
だれであってもキリストの御がない者はキリスト人を迫害するようになる(ロ8:9)。その魂が悪霊であるために迫害をする。

新天地人であるプライドとは、聖書を通達すること(1コリン2:10)、新約に約束された12支派の家族になったことと(7章)、イエスの血で罪を贖われ、イエスの中でいること(5:9107:1315)、イエスが自分の中に居られることを喜びに思うことである。(ヨハ14:201ヨハ1:4
 人達は聖書に無知で、しきたりや昔の人の言いえを重んじて、昔の先知使徒達のことを迫害した時のように、新天地人を迫害するが、かえって新天地人は聖書通りであるに喜ぶ(マタ5:1112)。神の新しい御の民である新天地人はわたし達の救いである自慢の十字架の道と世界のあらゆる民族のため、休まずに祈っている。


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