2016年2月18日木曜日

新天地、霊肉の天国、新しい国の創造

霊肉の天国、新しい国の創造
(本文:マタ6:10、啓21:6)


 神様とイエス様が約束された霊界と肉界に創造される新しい国は、どんなものなのか?そして、この地では、どこに創造されるのか?

 神様が混沌として暗やみとなった世でアダムとエバを創造された(創1章)。使徒パウロは、ヘブル書8:7~9に、以前のものが腐敗したので、新しいものを創造すると言われた。神様は、腐敗したアダムの世界を審判されて、ノアの世界を再び創造された。アダムの世界の始まりは、エデンであり(創2:7~8)、ノアの世界の始まりは、アララテ山であった(創8章)。ノアの世界(カナン)が腐敗した時、神様はアブラハムと約束されて(創15章、創17:4~8)、モーセに来られて、肉的イスラエルを創造された(出12章)。
 肉的イスラエルが腐敗した時、神様がイエス様に来られて、肉的イスラエルを終わらせて、霊的イスラエルを創造された(マタ3:16~17、ヨハ1:12~13参考)。霊的イスラエルが腐敗したので、神様とイエス様が再臨されて、霊的イスラエルを終わらせて、霊的新しいイスラエルを、今日、大韓民国で創造される。これは、神様がイエス様に来られて旧約を全て成し遂げられた(ヨハ19:30)ように、新約も新天地の約束の牧者「イギンジャ」に来られて全て成し遂げられたのである(啓3:122121:6)。

 イエス様の初臨の時の聖徒たちが信じるべき事は、旧約を成し遂げた事であり、主の再臨の時の聖徒が信じるべき事は、新約を成し遂げた事である(ヨハ14:29参考)。これを信じない事は、自分の信仰が腐敗したからである。神様の約束を信じない者は、アダム、エバと違いがない。
 今日、啓示録時代以前には、アダムの中で死んだ者たちがイエス様を信じる事によってその霊が救われた(Ⅰペテ34章参考)。しかし、啓示録時代以後には、その死んだたましいたちが救われない(啓20:12~15)。聖書に預言した全ての事が主の再臨の啓示録の時までである。

 地のものと偽りを好む者たちは、悪魔と偽りの牧者から生まれたからであり、真理を好む者たちは、神様と神様の牧者から生まれたからである。神様の種と悪魔の種で産まれた者の差がまさにこれである。

 使徒パウロがガラテヤ書4:26に、「上にあるエルサレムは私たちの母」と言われたのは、私たちを産んだという意味である。天のイエス様は、その弟子たちによって新しいエルサレムを創造された(啓21章)。新しいエルサレムという事は、昔のものではなく、新しいものという事である。この新しいものは、イエス様が母になって十二弟子(使徒)たちを基礎として造った聖なる都である。これは、イエス様がヨハネの福音書14:2~3で、「私たちの住まいを準備して再び来る。」と言われたその住まいである。御心が天で成し遂げられたように、この地でもそのように成し遂げられるものが(マタ6:10参考)、啓示録21章の以前の天と以前の地(昔のもの)がなくなった後、創造された新しい天、新しい地(新しいもの)である。この新しいものが創造されて、天(霊界)の幕屋(新しいエルサレム)と神様が、この地の新しい天、新しい地(新天地)に臨んで来られるので、神様の望まれた御心が全て成し遂げられたのである(啓21:1~7)。
 新しく創造された新しいエルサレムの土台石がイエス様の弟子(使徒)たちであり、この十二使徒たちを十二の宝石と言われたのは、新しい創造を意味している。モーセの時、肉的イスラエルの族長たち、すなわち、十二支派長を十二の宝石と言われた(出28章)ように、この昔のものを終わらせて、霊的新しいイスラエル十二支派長が都の土台石であり、十二の宝石になるのである。
 天でもこの地でも昔のものではなく、新しいもので創造されたのである。これは、モーセが天のものを見て、それと同じく創造して(出25章)、イエス様が天の父がなされた事を見て、それと同じくなされた(ヨハ5章)ように、御心が天で成し遂げられたように、この地でもそれと同じく成し遂げられたのである(マタ6:10)。
 聖徒たちに信じなさいと言った事も、また、聖徒たちが信じるべき事も、預言が成し遂げられた事である。これを信じない者は、まことの信仰人ではないからである。申命記18章に、神様が「わたしが一人の牧者を立てて、わたしの言葉を彼の口において、彼に命じる事を、彼が群れに全て告げるだろう。」と言われた。この時、群れが話す事が、「彼が、主が遣わされた者なのか、どうして私たちがわかるでしょう?」というので、神様が「もし、わたしの名で来たという彼の言葉に、証験(あかし)もなく、成就もなければ、これはわたしが言った言葉ではない。」と言われた(申18:18~22)。問題は、証験と成就である。

 啓示録で見たように、イエス様は、ご自身が使者を遣わして、啓示録全章の実像を諸教会にあかしすると言われた(啓22:16)。イエス様の使者の言葉は、すなわち、イエス様の御言葉であり(啓1:2)、この使者が話すあかしは、啓示録全章の事件である。
 啓示録通り成し遂げられた実像をと実体を差し出す事が、すなわち、啓示録を成就したあかしである。預言が成し遂げられた実体を差し出す事ができるならば、イエス様の使者であり、約束(預言)を成し遂げたという事である。
 そして、合っているならば、イエス様とその約束を信じてのみ、救いがあるようになる。旧約を信じると言ったユダヤ人たち(牧者たちと長老たち)が初臨の時の神様と約束の牧者イエス様が来られた時は、全く信じず(ヨハ1:9~11)、受け入れなかった。今日の約束の牧者が新約、すなわち、啓示録を成し遂げた事をあかししても信じないならば、初臨の時の彼らと何が違うだろうか?信じない者たちが正統になれるだろうか?彼らに、どうして救いがあるだろうか?

 我が新天地の約束の牧者は、新約の啓示録の全章の事件を見て聞いて、また、指示された通り神様の新しい国(霊的新しいイスラエル)を創造した。この国は、御心が天で成し遂げられたように、この地に成し遂げられた天国である。我が新天地は、啓示録が成就された実像を見て聞いた通り加減なくあかししている。
 


 新約で聖徒が望んで、信じるべき事は、啓示録の成就とその実像である。確認して、信じて、救われる者になる事を祈っている。アーメン!

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