2016年2月22日月曜日

新天地、新約の審判者

新約の審判者
(本文:啓20:12~15
(ヨハ5章、啓2章、ルカ20:9~16、マタ19:28))


 新約の審判者は、誰なのか?新約の審判者、すなわち、新約が成し遂げられる時、審判の権威を受けた者はイギンジャと十二支派長である。

 旧約が成し遂げられた初臨の時、神様が息子イエス様に審判をする権威を与えられた(ヨハ5:19~29)。当時の牧者たちは、教会を自分の所有にするため、審判者であり、相続者であるイエス様を殺した。聖書で比喩したように、ぶどう園(教会)の主人(神様)が来て、息子(イエス様)を殺した農夫たち(当時の牧者たち)を絶滅させて、ぶどう園を他の人に与えると言われた(ルカ20:9~16)。

 イエス様が語られた事が、世が新しくなって人の子が人の子の栄光の御座に着く時、主に従う十二弟子たちも十二の御座に着いてイスラエルの十二支派を審判するだろうと言われた(マタ19:28)。イエス様とイエス様の弟子たちは殉教して、その肉体はない。再臨のイエス様とその弟子たちは、霊だけで来られるようになる(ヨハ16:10、使1:9~11参考)。この時、この地では、イギンジャが(啓23章、啓12:10~11参考)十二支派を創設して、各支派長を立てる。殉教した十二弟子たちと、今日創造された(マタ6:10参考)十二支派長が一つになって、啓示録20章のように、審判するようになる。

 初臨の時は、イエス様が勝利する事によって(ヨハ16:33)天国と神様の聖霊がイエス様に臨まれて一つになって、イエス様は、神様からマナ(パン)と審判権(白い石)と万国を治める鉄の杖を受けて、父の御座に共に着いた(啓23章参考)。そして、遺業を引き継ぐ相続者であった。
 再臨の時は、イエス様が霊で来られて、神様がこの地にイエス様の名で保恵師聖霊を遣わして下さる(ヨハ14:26)。この地には、サタン・ニコライ派と戦って勝利した者(約束の牧者)がいて、来られる真理の聖霊保恵師を着て、彼と一つになって、隠されたマナ(命の御言葉)と審判する白い石と万国を治める鉄の杖を受けて、天国とイエス様の御座に共に着いて、政事をするようになる(啓23章)。

 初臨の時、父の名で来られたイエス様は(ヨハ5:43)、律法学者とパリサイ人たちからひどく迫害され、殺された。このように、今日、主の再臨の時、イエス様の名で来られる真理の聖霊保恵師と共にいるイギンジャもひどい迫害を受け、死に至る(啓11章)苦痛を味わうようになる。これが神様とサタンとの戦争であり、戦いである。
 チョンジキ教育院と韓基総とMBC PD手帳が新天地にどのようにしたのかを良くわかるだろうし、これが実際にあった事件であり、戦争であった。このように成し遂げられる事を世の牧者たちが、どうしてわかるだろうか?(世人何知)

 初臨の時は、イギンジャであるイエス様に救いがある事を(ヨハ5章)わからせて、再臨の時は、真理の聖霊保恵師と共にいるイギンジャに救いがある事をわからせた。権威と欲で天門が閉ざされ、暗くなった牧師たちが、これをどうしてわかる事ができるだろうか?旧約がイエス様一人の方を知らせたならば(ルカ24:27、ヨハ5:39参考)、新約、すなわち、啓示録はイギンジャ保恵師(代言者、Ⅰヨハ2:1欄下注参考)を知らせる路程であり、事件である。聖書に語られたように、イギンジャ保恵師がいなければ、神様の国も救いもない(啓12:10~11)。

 なぜ、信仰人は、これをわからないのか?初臨の時、ユダヤ人の牧者たちが神様の名で来られたイエス様を迫害して殺したように、再臨の時である今日、牧者たちがまた主の名で遣わされた保恵師を害しようとする。しかし、この保恵師は、永遠にいるだろうし、神様がイエス様を殺した牧者たちを絶滅させる時である事を良くわかるだろう(ルカ20:9~18参考)。この事実をわかるか?今日は、イエス様の御言葉通り、審判者イエス様を殺した罪に対して、そして、保恵師を殺そうとする迫害者たちに対して、神様が啓示録1617181920章のように、審判されるようになる。
 この時代が権勢と名誉とお金を好むが、神様とイエス様と天国と真理は好まない。蔑視と卑しむ事と呪いを武器にする者たちには、禍があるようになる。彼らは、価なく無料で啓示録を六何原則で知らせてあげたとしても、望まない者たちである。


 新天地は、新約とイエス様が約束された通り創造されて、光になって、神様とイエス様と天国が臨まれて一つになって、世に輝いている。これを信じる者は、死から命に移る事になって、イギンジャである息子の声を聞く者は、命の復活に出て行くようになる(ヨハ5:24~29参考)。これを信じない者は、審判を受けるようになる。アーメン!

新天地、使命と目的

使命と目的 
(本文:啓21:6(ヨハ19:30))


 霊であられる神様とサタンの使命と目的は、各々何なのか?地上の神様の牧者とサタンの牧者の使命と目的は、何なのか?

 神様の使命は、約束した事を成し遂げる事であり、目的は、神様の聖なる国と民族を立てて、そこに臨まれて、共におられる事である。サタンの使命と目的は、惑わしとだます事によって奪った世界と人類を自分のものとして守る事である。
 地の神様の牧者の使命は、神様の約束を守って、御心を天で成し遂げたように、この地でもそのように成し遂げる事であり、目的は聖徒たちと共に永遠の命の国、天国に入って、神様と共に住む事である。このために神様が約束された経書を調べて、その経書の教えと約束を守ろうと努力する。一方、サタンの牧者の使命と目的は、神様の牧者の使命と目的を妨害して、自分が主管して来たこの世を奪われないように守ろうとする事である。

 宗教は、天の教育、すなわち、教えを(ヨハ6:45)話す事であり、世の教育でも知識でもない。地よりも天が高いように、天の知識は世の知識よりも次元が高い。
 イエス様は、「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしの所に来ます。」と言われた(ヨハ6:45)。これが宗教である。使徒パウロは、神様(神)について「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。……そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません(使17:27~31)。」と言った。

 神、すなわち、神様を信じる宗教人はみんな使命と望む目的があって信仰をしている。そうならば、人が神、すなわち、神様について、また、その経書についてどれくらい知って信仰をするのか尋ねたい。
 本当に経書に精通して、神、すなわち、神様から聞いて見て学んだ事があるのか?そして、神の種で生まれた神の子孫なのか?経書(聖書)について自分の基本、自分の考え、自分の判断で「これだ、あれだ。」と言い、天狗になっているのではないのか?何もわからないのに、真っ暗な暗やみの中で迷って、のさばっているのではないか、まことの神は知っているだろう。

 人がまず知る事は、創造主であり、まことの神であられる神様の立場と事情を知るべきであり、その御心を知るべきであり、また、人が当面している立場と事情を知るべきであり、敵サタンの権威と横暴を知るべきであろう。これをわからない立場では、宗教と神(神様)について話す資格も価値もない。神様が天地万物を創造されて、人を造って、万物を任されたが、人がサタンに惑わされて、サタンの所属になる事によって、神様は、万物と人を失って、人間世界から離れておられ、これを再び回復されるために数千年間、働いて来られたが、犯罪者の遺伝子で生まれた人が創造主の言葉を信じないので失敗して来た。神様が働いて来られたあかしが経書であり、経書の内容は、神様の御心であり、約束であった。

 まことの神であられる創造主神様と、その経書を信じる事ができるあかしは何なのか?創造された人の始祖(アダム:人)から今日まで、何代目の子孫、何代目の子孫と記録が現わされていて、また、時代ごとに約束された事は、その約束通り成し遂げられたので、これが信じるあかしである。地上(特に東洋)には、儒・仏、仙の三道があり、その三道が話している経書がある。全ての経書の主人は、同じ創造主であられる。道人は違うが、道の主は同じ一人の方であられる。しかし、道人が自分たちの経書をわかって信じているのか?そうではない。わからないのに「お釈迦様、神様」と信じるのは、自分の師が伝えて下さったその神を信じる事である。しかし、その神が下さった経書の御心をわからなくて、正しい信仰をできないのである。
 イエス様が来られる約500年前に釈迦が、イエス様が来られる事とイエス様の偉大な道を知らせたように、モーセもイエス様をあかしして、イエス様は自分の名で遣わされる保恵師をあかしされた(ヨハ14:26)。保恵師は、真理、すなわち、御言葉を持って来て教えると言われた(ヨハ16:13)。これが時代に従って遣わす神様の使者、すなわち、約束の牧者についての預言である。時代の約束に従わない者は、道を利用して、自分の事業体に造るだけである(ルカ20:9~15参考)。

 釈迦とその弟子たちが極楽世界に行ったとか、行くと思うのか?そうではない。これは経書をわからず、やたらに言っている事である。歴代の信仰人たちが天国に行ったと思うのか?そうではない。まことの神であられる神様は、罪に陥った人類を救って、創造の本来の世界(楽園)を回復しようと数千年間、時代ごとに牧者を立てて働かれたが、回復できなかった。
 雄牛と山羊の血でも人類の罪が赦されなかった(ヘブ10:4)。これは、律法的な捧げものやいけにえ(祭祀)では救いがないという話しである(ヘブ9:9~10)。神様は、旧約の預言者たちに前もって預言されて、約2千年前、時になって神様がイエス様に来られて、約束された事を成し遂げられた。すなわち、罪の赦しについては義人イエス様が来られて身代わりとなって血を流される事であり(ヘブ10:1~14)、新しい時代の新しい人である天民の創造については、イエス様を通して天の福音の種を蒔かれて、また、収穫の時が来る事を約束された(マタ13:24~30)。種を蒔いてから2千年が過ぎた今日、約束された通り、神様とイエス様が再臨されて、種を蒔いた畑(イエス教会、キリスト教世界)に行って、神様の種で生まれた穀物の聖徒を収穫されて、天国に連れて行って、天民にされる(啓14:14~16)。これが新約の約束を成し遂げられたあかしである。

 イエス様がこの地に来られる前には、人の種、すなわち、犯罪者(アダム)の遺伝子で生まれた肉体の種で生まれた者を選民にしたのがアブラハムの子孫であった。しかし、イエス様以後には、神様の種(御言葉、ルカ8:11)で新しく生まれた(Ⅰペテ1:23)者だけが神様の子ども、すなわち、天民であり、約束の民族で、天国に行く資格を備えた者である(ヨハ1:12~13参考)。「仏教人である、キリスト教人である、良く信じる、良く知っている。」と言って極楽と天国に行くのではなく、ただ、神様の種で生まれた者だけが天国に行く事ができる。「忠誠した、イエスを信じた、善良で、良い行いをたくさんした、教会に休む事なく出席した、献金をたくさんした。」と言って、神様の子ども、すなわち、神の子孫(使17:29)になれるのではない。金氏の子どもがいて、朴氏の子どもがいるように、神の子孫がいて、肉の子孫がいるのである。
 肉の子孫が神の種で再び生まれないならば、神の子孫になる事ができない。神様の種で生まれた者たちだけが神様の国の家族になって、天国に入る事ができ、天国で神様と共に住む事ができる。

 人々は、各自自分の道について主張をする。本当にコメディーのようである。どんなにまことだと主張しても、肉体だけであり、経書をわからなければ、道人にもならないのであり、まことの神であられる神様の種で産まれないならば、何の益もない。
 神様の敵はサタンである。サタンは、事あるごとに神様の働きを妨害している。それも6千年間、そのようにして来た。今日、サタン、すなわち、悪魔の神が共にいる者たちが神様の牧者を除去するためにあらゆる偽りの言葉と人身攻撃に専念していて、インターネットカフェなどを造って、のろいを浴びせるなど、あらゆる形で迫害を敢行している。これは悪魔の悪行である。

 我が新天地イエス教証拠幕屋聖殿(略称「新天地」)の約束の牧者は、神様とイエス様が約束された啓示録の実像(啓示)を見て聞いて、天から来た啓示の本を受けて指示される事に従って、六何原則に基づいてあかししていて、新天地人は、世界民族の中で聖書に精通している。
 新天地は、聖書の御言葉解説に対すて正しく誤りを弁論するために数年間、公開討論を提議したが、ただの一人も応じた者がない。そして、公開集会(御言葉大聖会)でも、「審判をしに来たのではなく、審判を受けに来た。」といって、誤りを指摘せよと言ったが、誰一人「違う、間違っている」と言った者がない。それなのにもかかわらず、後ろからだけ迫害をするのは、自分たちの教団を事業体に造って、自分たちの被害を防ぐため、そのような行動をしただけで、これは信仰人ではないというあかしである。

 今日、新天地のあかし(啓示の御言葉)を受けなければ、経書(聖書)をわからないのであり、神様の御心通り信仰をしなくなって、新しく生まれることもなく、もちろん、天国にも行かれない。世の教会は、ただ、教権と事業体として運営されるだけである。新しく生まれて、天国に入ろうとすれば、新天地の信条のように、最高の真理の町、公義公道の国、最善の聖君にならなければならない。新天地は、昼夜、その門が開いていて、どんな道人(宗教人)でも受け入れ、新しく生まれさせている。
 ともかく、来て経書と共に入って見て確認せよ。悪魔の種で生まれた者、悪魔の神を受けた者は、恐れをなして傍にも来るのを嫌う。新天地の真理の御言葉を聞けば、緋のような罪も洗われるだろう。そして、悪い種を抜いて、悪人の家を破壊して、神様の種で再び植えて、神様の家(聖殿)を建てて、神様に仕える事ができるようにする。このために新天地の保恵師が来たのである。



祝福された者は、来て、聞いて、悟って、永遠の命の天国を得るだろう。アーメン!

新天地、新天地と証拠幕屋聖殿

新天地と証拠幕屋聖殿
 (本文:啓21章、15章)


 「新天地」とは、何を言ったのであり、「証拠幕屋聖殿」は、どんなものなのか?そして、誰が約束して、誰が創設したのか?

 「新天地」とは、新しい天、新しい地を言ったのである。啓示録21:1に見ると、以前の天と以前の地がなくなって、新しい天、新しい地がある事を言っていた。すなわち、新しい時代が創造される事によって以前の時代が終わる事を言ったのであり、先天時代(イエス様の初臨の天の福音の働き)が終わって、後天(イエス様の再臨の新しい天)時代が到来する事を言ったのである。
 アダムの時代が終わって、ノアの時代が開いて、ノアの世界のカナンの時代が終わって、イスラエル時代が創造され、アブラハムの血統で始まったモーセの肉的イスラエル時代が終わって、イエス様の天の福音の時代(霊的イスラエル時代)が展開されたように、今日は、初臨のイエス様の天の福音の種を蒔く働きが終わって、イエス様の再臨の収穫の時が始まった。初臨の天の働きが終わる事が、すなわち、以前の天と地がなくなる事であり、再臨の働きが始まる事が、すなわち、新しい天と新しい地が始まる事である。これがなくなる以前の天と以前の地であり、創造された新しい天、新しい地である。神様は、御心が天で成し遂げられたように、この地でも成し遂げられた新しい天、新しい地、すなわち、新天地に臨んで来られる事を(啓21:1~4)わからなければならない。

 創造された新しい天は、新しい幕屋を(啓15:5)言っているのであり、以前の天は、以前の幕屋を(啓13:6)言っている。「新しい地」と「以前の地」の「地」は、場所と人(聖徒)を言っている。
 この世の地に創造された幕屋を「天」と呼んだ理由は、何なのか?神様の選民を太陽、月、星と言ったので(創37:9~11参考)、太陽、月、星がある所が天になるので、選民の幕屋を天と言ったのである。

 なくなった啓示録13章の幕屋「以前の天」(啓21:1)と、その後に創造された「新しい天(啓15章、啓21:1)」は、同じ所ではなく、その名称も違う。啓示録13章は、「天の幕屋」と言い、15章では、「証拠幕屋」と言った。
 なぜ、証拠幕屋聖殿なのか?
 啓示録15章で見たように、神様の御座の前のガラスの海のほとりに集まった者たちは、13章と12章の幕屋で獣(7頭と10角を持った)と戦って、勝利して出て来た者たちである。彼らは、現場の事件を見た証人たちである。啓示録全章の事件は、マタイの福音書24章のように、聖なる聖殿、すなわち、道を備える七人の使者がいる幕屋で起こった事件である。これを見て出て来たので、その事をあかしする事ができる。だから、彼らが集まった幕屋を「証拠幕屋」と言い、ここが神様の御座がある所なので、「聖殿」と言う。この時、この人々がいるここが、すなわち、新しい天、新しい地(新天地)のあかしをする幕屋であり、ここに神様が共におられるので、これを「新天地イエス教証拠幕屋聖殿」と言う。
これは、神様が前もって約束された国と民族であり、聖殿である。人の考案でつけた教団名、教名ではない。新天地は、神様が約束されて、創造された創作物である。これを害する者は、誰であっても害を受ける。

 啓示録で創造された天民、十二支派は、神様の種で新しく生まれた神様の子どもたちであり、家族である。神様の秘密は、この種にあり、この種で産まれなかった者は、救いがない(マタ13:3~11、マコ4:10~13参考)。

 世は罪を犯したアダムの遺伝子で生まれたので、義人がいず、義人がいないこの世は、新約に御心とされた神様の目的と神様の種と関係がない。誰でも神様の種で新しく生まれなければ、神様を父と呼ぶ事はできない(ヨハ3:3~5、Ⅰペテ1:23、ロマ8:14~15参考)。新天地十二支派の家族たちは、神様の種で新しく生まれた者たちであり、収穫されて、印を押された者たちであり、天民である(啓7章、14章)。世界のその誰も神様の種で生まれた、まことの神の子孫である天民、新天地の小さき者(少子)と弁論して勝利する者がない。新天地の公開集会(御言葉大聖会)で間違いがあれば、指摘しなさいと言った事について、また、天国の牧会者たちに提議した公開弁論要請について、ただの一人も指摘したり、応じなかったそれが、彼らが負けたという証拠である。そして、新天地は、真理で勝利したという証拠である。
地の人が、どうして天のものをわかるだろうか?天の人が天のものを見て聞いて知っているのである(ヨハ3:31~34)。


 世の人々は、お金を払って偽りを学ぶが、私たちは、ただで受けたので、ただで与える(マタ10:8参考)。来て、価なく命の水を受けて(啓22:17)、新しく生まれて、救われる事を祈っている。アーメン!


新天地、聖なる民族と天の祝福

聖なる民族と天の祝福
(本文:ヨハ17:17~26(Ⅰヨハ4:5~11、ヨハ15:9~12))


 祝福を受ける秘訣は、何なのか?神様とイエス様の戒めを守り、互いに愛し合い、きよくなる事である。まことの神様は、天地創造主であられ、生死禍福を主管する祝福の根源であられる。人の生死禍福が神様にあるので、長寿と祝福を得ようとすれば、生死禍福を持っておられる神様の御心通りしなければならないし、その行う事が神様に認められなければならない。

 人は、犯罪者アダムの遺伝子で産まれて、アダムの中で死んだ者であり、その行為が創世記6章のように、悪いのであった。だから、宗教が必要であり、天の教育が必要であった。人は、誰も天の種と聖霊で再び生まれる前には、罪と悪から抜け出した者がない。
 これによってモーセの時は律法を守らせて、初臨のイエス様の時は自由律法を守らせ、今日は、まことの真理の水(申32:2参考)で罪を洗って、なくさせる時である。この真理の水は、唯一であられる神様の約束の御言葉(真理)である。これを知って守る事が、神様のまことの宗教である。まことの宗教は、世の知識よりも天ほどに高い。これは、神の教育だからである。

 神様から生まれた者、神様に属した者は、イエス様の戒めのように、互いに愛し合う者である。イエス様は、互いに愛し合い、赦し合い、祝福しなさいと言われた。愛さず、赦さず、のろいに専念する者は、愛の神様から生まれず、悪の種で産まれた証拠である。
 愛と赦しをせず、のろいに専念する者は、神様も、その御言葉も、戒めも守らない者である。もう一度言えば、信仰人ではない者である。このような者は、悪に属して、迫害するために生まれた者である。悪に属した悪の働き手である。
 神様の目的は、罪人の罪を赦されて、罪人を善人、すなわち、聖なる者に造るのである。このために独り子イエス様を下さって、イエス様は、罪人の罪を赦すために十字架にかかられたのである。悪に属した者は、自分がする悪行が善だと思っている。これがサタンの政策である。悪人たちは、誰に悪を行うのか?神様とサタンは、互いに敵同士であり、今まで戦争をして来て、サタンに属した者がサタンの意志に従って神様に属した聖徒たちに悪を行って来たのである。
 6千年の神様の働きの中で預言の使徒たちを殺した者たちが誰に属したのか、私たちは、聖書を通してよく知っている事である。悪人同士、悪を行うのではなく、悪人が選民に悪を行うのである。被害はいつも神様の選民が受けた。神様は、終わりの日に悪人たちを硫黄の火の池に投げ込む処罰をされる事を、聖書は語っている(啓20:12~15)。
 
 迫害と悪の場所を提供するインターネットカフェ、及び、ブログなどから見えるアンチ(anti、新天地の被害者と言う者)たちの蛮行は、本当に見る事ができない。見るにも、聞くにも決まりが悪い。今の時代は、技術が発達した万能の時代である。このような技術を悪用して、アンチたちが迫害を目的に合成写真を載せ、偽りの言葉と偽りの写真を載せ、相手を侮辱している。これは、亡国的行為であり、キリスト教の敗亡的終末を知らせる腐敗である。人は皆、両親、兄弟がいて、友だちがいて、隣人がいる。アンチたちがカフェに載せた凶悪な事柄を彼らが見る時、その心の傷がどれくらい大きく、その結果が社会にどんな影響を及ぼすだろうか?教徒たちが載せたその凶悪な事柄を見れば、育ち盛りの子どもたちが教徒になりたいだろうか?インターネットカフェの運営陣は、他の人を呪う凶悪な内容の文書は、カフェに載せなくさせなければならないし、載せられた場合には、削除しなければならない。そして、この国の政府は、本にできない悪評を載せて、社会の非難を買ったり、青少年たちの教育に害になる内容の文書、写真などを載せる事を黙認するカフェを厳罰に処さなければならない。非論理的、非道徳的な文書、写真などを載せる事は、明白な違法行為であり、このようなサイバー犯罪に対する処罰法をさらに強化しなければならない。

 これを筆者は、この国の政府に強力に訴えるものである。これを実現して、亡国にならないようにしなければならない。不義を終わらせて、義を立て、聖なる民族にならなければならないし、聖であられ、まことであられ、全ての祝福の根源であられる神様から祝福を受けて、輝く神様の国、大韓民国にならなければならないだろう。無責任な所から抜け出て、祝福を受ける行動をする事によって祝福を得るだろうし、世の光になるだろう。神様が不義な国に祝福を与えるだろうか、善で、義なる国と民族に祝福を与えるだろうか、考えて見よ。


 政府は、地上の全ての牧者たちに聖書の基準で試験を受けて、御言葉の実力とまことの信仰の可否を確認して、まことの実力者であり、まことの信仰の牧者に聖徒を養育させてこそ、この国が祝福を受けるようになる。アーメン!


新天地、神様と竜の正体

神様と竜の正体
(本文:創23章)


 神様と竜は、どんな存在なのか?そして、見た者がいるのか?神様も竜も霊(神)である(ヨハ4:24、啓16:13~14)。

1.神様の正体
 神様は、自らおられる唯一神であられ、天地創造主であられ、その名はエホバで、これは永遠の名前であり、代々に記憶する表号(呼び名)である(創1:1、出3:14~15、イザ37:16、ヨハ17:3)。
 神様を見た者がなく(ヨハ1:18、Ⅰヨハ4:12)、ただ、天から来た者だけが神様を見たと言われた(ヨハ6:46)。イエス様と使徒ヨハネは、天に上って行かれて、神様をご覧になった(ヨハ3:12、啓4章)。そして、神様は霊であられるので(ヨハ4:24)、霊でだけ見る事ができる(啓4:2参考)。しかし、イエス様の血で罪が解決されて、新しく生まれて、印を押された十二支派の天民たちは(啓1:5~6、啓7章、14章)、神様を見る事ができ、永遠に共に生きると言った(啓22:1~5)。
 人の罪によって離れて行かれた神様は(創3章、創6:1~7)、イエス様の血で罪が解決される事によって再び来られて、新しく生まれた人と共におられると約束された(啓21:1~722:1~5)。初臨の時、来られた神様が罪のないイエス様の中におられた(マタ1:16~17、ヨハ10:3014:10~11)ように、再び来られる神様の霊は、人の中におられる。

2.竜の正体
 竜は、神様が創造された被造物である御使いが背教する事によって現れた存在で、その名は、蛇、または悪魔、またはサタンであり(創3:1、啓12:920:1~2)、悪神である。神様もサタンも神(霊)なので、人間の世で働く時は、人の中に入って働くようになる。
 なぜ、被造物である御使いが神様を背信して、サタン、悪魔になったのか?それは、自分の地位よりもさらに高くなろうという欲のためである。これをヤコブ書115節に、「欲がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生む。」と言い、また、人が誘惑に陥るのは、欲に引かれ、誘われるからだと記録されている(ヤコ1:14)。
 このように、被造物が逆賊になる事も欲のためである。創世記3章の蛇もエバも、神様のようになろうという欲のために背信者になったのである。エゼキエル28章では、背教したケルブについて、「自分を神、王という者であり、昔、エデンの園にいて、神様が立てて下さったので、神様の聖なる山で火の石(火光石)の間を歩いて、知恵に満ち、完全な印であった。」と記録されている。
 前で言ったケルブ(cherub)は、四つの生き物を言ったのであり、四つの生き物は神様と天国を守る天の軍隊である。このうちの一つのケルブが背教する事によって蛇になって、三分の一の天の軍隊を所有している者である。彼は、エデンの園にいて、自分の権威が高くなるに従って、神様の席まで狙って、被造物であるエバを惑わしたのである(イザ14:12~14参考、創3章)。
 罪を犯した御使いとその群れについて、ユダヤ書には、「位と場所を離れて党を造った(ユダ1:619)。」と言い、第二ペテロ2章には、「彼らは正しこを捨てて、バラムの道に従った(Ⅱペテ2:15)。」と言い、このような行為を「犬は自分の吐いた物に戻り、豚は身を洗って、また泥の中に戻る。」と比喩した。また、啓示録9:14~16には、「罪を犯した御使いを解き放して、彼らが人の三分の一を殺す行いをして、その数が2万万である。」と言った。

 竜、すなわち、蛇は、アダムとエバを惑わした(創3章)後、地上で6千年の間、世を主管して来た(マタ4:8~9、ルカ4:5~6、エペ2:2)。それゆえ、今日まで天下万物は、その成分がサタンに似るようになったので、どれ一つ、聖なるものがない。万国が惑わされたので(啓18章)、今日、いのちの木が登場して、再び、万国を蘇醒させなければならない(啓22:1~2)。
神様とサタン悪魔(竜)は、天地万物の所有権を置いて、6千年間、戦争をして来たのである。竜は、6千年目に捕らえられて閉じ込められる事を、2千年前にすでに知っていた。初臨の時は、悪霊がイエス様に「まだ時ではないので、私たちを底知れぬ穴に行けとは言わないで、豚の群れに入らせて下さい。」と言った(マタ8:28~32、ルカ8:26~33)。しかし、主の再臨の時である今日は、竜を捕らえて底知れぬ穴に閉じ込める時である(啓20:1~3)。

 神様が創造された人類世界を6千年間、竜が主管して治めて来たが、啓示録成就の時からは、神様が統治される時である(啓19:6)。この時から永遠に神様が主管される。



 聖徒は、啓示録の成就の時を知って、神様との約束を信じて守る事によって、救われる事に力を尽くさなければならない。アーメン!

2016年2月18日木曜日

新天地、竜の七つの頭と十本の角 - 20140401

竜の七つの頭と十本の角
 (本文:啓1312章)


 竜の七つの頭と十本の角は、何なのか?

 竜は、サタン、悪魔、蛇を言ったのである(啓12:920:1~2)。そして、七つの頭は、七つの教団の七人の牧者を言ったのであり、十本の角は、教団の牧者に属した十人の権勢者(長老)を指して言った言葉である(啓17章参考)。彼らは、主の再臨の時にあるようになる前兆で現れた人物たちであり、霊的イスラエルを滅亡させたサタンの牧者たちである。
 イエス様の初臨の時、サタンの働きをした祭司長たちと長老たち(マタ26:3~45927:1~2)のように、今日の竜の七つの頭と十本の角は、啓示録13章の選民の天の幕屋に入って来て、神様の聖徒たちと戦って勝利して、聖徒たちの手と額に自分たち(獣)の教団の名で刻印を受けさせて、自分たちに礼拝させた者たちである。

 これは、大韓民国果川所在の清渓山のすそ野で1980年にあった事件である。七つの頭と十本の角と、また彼らの頭領になる淫婦は、秘密であり(啓17章)、また、主の再臨の道を備える使者である七つの星とその幕屋である七つの金の燭台も秘密であった(啓1:19~20)。この秘密を世の人が、どうしてわかるだろうか?[世人何知]
 この事件が大韓民国で起こったならば、この事件に関係されるその霊は、昔からいる霊であるが、その牧者たちは、今日の大韓民国の人であり、牧者である。なぜ、牧者を獣と言ったのか?それは、蛇、サタン、竜がと共にいるからであり、獣のように神様もその御言葉もその御心もわからないからである(箴30:2~3参考)。獣に「おまえ、神様をわかるの?」と聞いても答えがないし、「おまえ、神様の御言葉はわかるの?」と言えば、聞いたふりもしない。このように、獣、蛇が入った者たちは、神様の御言葉を伝えても聞いたふりもせず、知らないと言う。だから、サタンの牧者たちを獣に比喩したのである。

 では、獣、すなわち、竜の牧者たちを、どのようにわかるだろうか?聖書に約束した内容は、これを知らせたのである。聖書の意味を本当にわかるならば、この獣たちをわかるだろう。聖書の御言葉をわからないそれ自体が、無識の病にかかったのである。彼らは、主のまことの牧者たちを迫害して、呪う事は良くしても、聖書については真っ暗な夜なのである。竜の群れ、七つの頭と十本の角を持った獣、すなわち、偽りの牧者たちは、マタイの福音書24章に記録された預言通りに神様の聖殿、すなわち、啓示録13章の天の幕屋に入って来て、聖殿と聖徒たちを滅亡させて聖なる所に立った者たちなので、彼らが滅亡者たちである。彼らの数は、頭が七つであり、角が十本である。そして、啓示録13章の天の幕屋の牧者(使者)と聖徒たちは、滅亡者、獣から自分たちの額と手に獣の刻印を受けて、獣に礼拝した背教者たちであり、神様の約束の幕屋の牧者(使者)の数は、七人である。
 これをわからせるために前もって聖書に話してくれたのであり、これを成し遂げる時、見て信じなさいと教えて下さったのである(ヨハ14:29)。背教者・滅亡者・救い主をわかる事が、救われる条件であり、これをわかるためには、約束の牧者を通して啓示を受けなければならない。また、啓示録12章で、この滅亡者と戦って勝利した者、すなわち、太陽を着た女から生まれた子が約束の牧者であり、救い主である。この牧者は、啓示録23章で、サタン、ニコライ派と戦って勝利するならば、記録されたように、祝福を与えるとイエス様が約束された「イギンジャ」である。

 啓示録のこのような事件が成し遂げられる時、偽りの牧者の言葉を聞いて、成し遂げられた事件と約束の牧者を信じない、それが罪である。
 滅亡者である竜の群れ、七つの頭と十本の角を持った獣(秘密の存在)をわからなければ、天の幕屋の聖徒が獣の刻印を受けて、獣に礼拝する背教の事件と、背教者をわからなくなり、この時、滅亡者と戦って勝利したイギンジャ(子、啓13章)をわからなくなるので、結局、聖書(新約)についてわかると言えるだろうか?
 滅亡者である竜の七つの頭と十本の角は、異邦の国の人々でもなく、ECでも、強大国の指導者たちでもなく、大韓民国の偽りの牧者たちである。この偽りの牧者たちがどれくらい多くの偽りをあかししたか、今、わかるようになるだろう。なぜ、彼らが偽りを教えるのか?偽りの神(霊)を受けたからである。聖書を偽りであかしした各注釈が、それを証明している。

 神様は、諸教会のために使者を遣わされて、啓示録全章の事件を知らせられた(啓22:16)。しかし、聖書の預言が成し遂げられた事実を信じない行為は、昔も今も続いている。今日の啓示録の事件を信じなければ、どんなに善良で、良い働きをたくさんして、教会に良く出席して、十一献金など、献金をたくさんして、断食して、祈って、母胎信仰で長い間、信仰人だと言っても、決して、救われない。その理由は、信じない罪のためである。



 わたし(約束の牧者)は、この時代の人々に、わたしが見て聞いた事(新約が成就された事)と、神様の御言葉を全てあかしした。

新天地、霊肉の天国、新しい国の創造

霊肉の天国、新しい国の創造
(本文:マタ6:10、啓21:6)


 神様とイエス様が約束された霊界と肉界に創造される新しい国は、どんなものなのか?そして、この地では、どこに創造されるのか?

 神様が混沌として暗やみとなった世でアダムとエバを創造された(創1章)。使徒パウロは、ヘブル書8:7~9に、以前のものが腐敗したので、新しいものを創造すると言われた。神様は、腐敗したアダムの世界を審判されて、ノアの世界を再び創造された。アダムの世界の始まりは、エデンであり(創2:7~8)、ノアの世界の始まりは、アララテ山であった(創8章)。ノアの世界(カナン)が腐敗した時、神様はアブラハムと約束されて(創15章、創17:4~8)、モーセに来られて、肉的イスラエルを創造された(出12章)。
 肉的イスラエルが腐敗した時、神様がイエス様に来られて、肉的イスラエルを終わらせて、霊的イスラエルを創造された(マタ3:16~17、ヨハ1:12~13参考)。霊的イスラエルが腐敗したので、神様とイエス様が再臨されて、霊的イスラエルを終わらせて、霊的新しいイスラエルを、今日、大韓民国で創造される。これは、神様がイエス様に来られて旧約を全て成し遂げられた(ヨハ19:30)ように、新約も新天地の約束の牧者「イギンジャ」に来られて全て成し遂げられたのである(啓3:122121:6)。

 イエス様の初臨の時の聖徒たちが信じるべき事は、旧約を成し遂げた事であり、主の再臨の時の聖徒が信じるべき事は、新約を成し遂げた事である(ヨハ14:29参考)。これを信じない事は、自分の信仰が腐敗したからである。神様の約束を信じない者は、アダム、エバと違いがない。
 今日、啓示録時代以前には、アダムの中で死んだ者たちがイエス様を信じる事によってその霊が救われた(Ⅰペテ34章参考)。しかし、啓示録時代以後には、その死んだたましいたちが救われない(啓20:12~15)。聖書に預言した全ての事が主の再臨の啓示録の時までである。

 地のものと偽りを好む者たちは、悪魔と偽りの牧者から生まれたからであり、真理を好む者たちは、神様と神様の牧者から生まれたからである。神様の種と悪魔の種で産まれた者の差がまさにこれである。

 使徒パウロがガラテヤ書4:26に、「上にあるエルサレムは私たちの母」と言われたのは、私たちを産んだという意味である。天のイエス様は、その弟子たちによって新しいエルサレムを創造された(啓21章)。新しいエルサレムという事は、昔のものではなく、新しいものという事である。この新しいものは、イエス様が母になって十二弟子(使徒)たちを基礎として造った聖なる都である。これは、イエス様がヨハネの福音書14:2~3で、「私たちの住まいを準備して再び来る。」と言われたその住まいである。御心が天で成し遂げられたように、この地でもそのように成し遂げられるものが(マタ6:10参考)、啓示録21章の以前の天と以前の地(昔のもの)がなくなった後、創造された新しい天、新しい地(新しいもの)である。この新しいものが創造されて、天(霊界)の幕屋(新しいエルサレム)と神様が、この地の新しい天、新しい地(新天地)に臨んで来られるので、神様の望まれた御心が全て成し遂げられたのである(啓21:1~7)。
 新しく創造された新しいエルサレムの土台石がイエス様の弟子(使徒)たちであり、この十二使徒たちを十二の宝石と言われたのは、新しい創造を意味している。モーセの時、肉的イスラエルの族長たち、すなわち、十二支派長を十二の宝石と言われた(出28章)ように、この昔のものを終わらせて、霊的新しいイスラエル十二支派長が都の土台石であり、十二の宝石になるのである。
 天でもこの地でも昔のものではなく、新しいもので創造されたのである。これは、モーセが天のものを見て、それと同じく創造して(出25章)、イエス様が天の父がなされた事を見て、それと同じくなされた(ヨハ5章)ように、御心が天で成し遂げられたように、この地でもそれと同じく成し遂げられたのである(マタ6:10)。
 聖徒たちに信じなさいと言った事も、また、聖徒たちが信じるべき事も、預言が成し遂げられた事である。これを信じない者は、まことの信仰人ではないからである。申命記18章に、神様が「わたしが一人の牧者を立てて、わたしの言葉を彼の口において、彼に命じる事を、彼が群れに全て告げるだろう。」と言われた。この時、群れが話す事が、「彼が、主が遣わされた者なのか、どうして私たちがわかるでしょう?」というので、神様が「もし、わたしの名で来たという彼の言葉に、証験(あかし)もなく、成就もなければ、これはわたしが言った言葉ではない。」と言われた(申18:18~22)。問題は、証験と成就である。

 啓示録で見たように、イエス様は、ご自身が使者を遣わして、啓示録全章の実像を諸教会にあかしすると言われた(啓22:16)。イエス様の使者の言葉は、すなわち、イエス様の御言葉であり(啓1:2)、この使者が話すあかしは、啓示録全章の事件である。
 啓示録通り成し遂げられた実像をと実体を差し出す事が、すなわち、啓示録を成就したあかしである。預言が成し遂げられた実体を差し出す事ができるならば、イエス様の使者であり、約束(預言)を成し遂げたという事である。
 そして、合っているならば、イエス様とその約束を信じてのみ、救いがあるようになる。旧約を信じると言ったユダヤ人たち(牧者たちと長老たち)が初臨の時の神様と約束の牧者イエス様が来られた時は、全く信じず(ヨハ1:9~11)、受け入れなかった。今日の約束の牧者が新約、すなわち、啓示録を成し遂げた事をあかししても信じないならば、初臨の時の彼らと何が違うだろうか?信じない者たちが正統になれるだろうか?彼らに、どうして救いがあるだろうか?

 我が新天地の約束の牧者は、新約の啓示録の全章の事件を見て聞いて、また、指示された通り神様の新しい国(霊的新しいイスラエル)を創造した。この国は、御心が天で成し遂げられたように、この地に成し遂げられた天国である。我が新天地は、啓示録が成就された実像を見て聞いた通り加減なくあかししている。
 


 新約で聖徒が望んで、信じるべき事は、啓示録の成就とその実像である。確認して、信じて、救われる者になる事を祈っている。アーメン!

新天地、新天地証拠幕屋聖殿

新天地証拠幕屋聖殿
(本文:啓2115章)


新天地(新天地イエス教)証拠幕屋聖殿は、異端なのか?

 「新天地」は、啓示録21章の「新しい天、新しい地」の漢字、新天新地の略語である。聖書には、以前の天と以前の地がなくなって、新しい天と新しい地があるようになり、神様とイエス様と天国は、新天地に来られると約束された(啓3:1221:1~7参考)。そして、「証拠幕屋聖殿」は。啓示録15:4~5で言ったように、万国が来て礼拝する聖殿で、「証拠幕屋」というのは、啓示録全章の事件を見て聞いた事をあかしする幕屋である事を意味し、「聖殿」とは、聖なる家という意味である。
 聖書通り創造された「新天地証拠幕屋聖殿」を異端と言うならば、これを約束された神様とイエス様を異端と言う事になり、聖書の「啓示録」は、異端説になる。神様も聖書も新天地も信じないならば、自身の信仰が間違っていると言ってこそ合っているだろう。
 もし、人が恣意的に解釈した「注釈」を読んで見て、聖書を異端と言うならば、地上の全ての聖書はみんな燃やさなければならないだろう。また、カルヴァン教理でイエス教の教理である聖書を異端と言うならば、イエス教と聖書を燃やして、カルヴァン教理を聖書にして教育しなければならないだろう。

 聖書以外に自分が主張する経書があるならば、その経書が正しい事をあかししてのみ、聞いて比較して見る事ができるだろう。人が憎ければ、人だけ憎いと言えばいいのであって、聖書の御言葉までも憎んではいけない。聖書は、同じものだが、その解説が合わないと考えるならば、その解説が合わないと言わなければならないだろうし、こういう場合、その解説は、それではなく、これだと、その根拠を出して話さなければならないだろう。

 聖書が話す新天地が間違ったものならば、間違ったという証拠を出して話して、新天地ではなく、他のもの(創造物)を出さなければならないだろう。私たちは何度も聖書の公開討論を全国に提案したが、今日までただの一人も出て来て対応した人はいなかった。
 新天地が間違ったものならば、堂々と出て来て、「新天地」という言葉が間違いだと言うなり、また、新天地の聖書の解説が間違っているならば、それが間違いだと言うなりしなさいと何度も言ったが、酒屋の子犬のように後ろでだけキャンキャン吠えるので、獣という言葉が合っているのではないか?(箴30:2~3参考)

 己未独立運動(3・1運動)の時、仏教、キリスト教、天道教など、民族代表33人が宣言した独立宣言書に「新天地、天の文化が世を新しくする」と言った。彼らが話した新天地が悪いものなのか?聖書には、神様と天国が新天地に臨まれるので、悲しみも苦しみも嘆きも悩みも死もない楽園になると言われた(啓21:1~7)。これが、なぜ、悪いという事なのか?
 硫黄の火の池の地獄と言えば、真理であり、正統なのか?聖書通り創造された新天地を悪いという牧者は、新天地を硫黄の火の池地獄という話になり、これは、正統と真理を地獄という事に認識される。

 果川の牧師たちが、新天地が果川を聖地化しようとすると言いながら、新天地を迫害して、非真理の異端として取り扱い、果川から追い出すと騒いだ。このように新天地を異端としながら誰でも新天地に関する話だけしても「悪い奴、異端、非真理」と言うので、キリスト教の世が腐敗の中でも上腐敗であり、これは、完全な悪霊の仕業ではないのか?白いものを黒いという彼らは誰なのか?

 イエス様が約束された(マタ19:28、啓21章参考)「新天地」を異端と言う者は、天国に行く事ができず、「証拠幕屋聖殿」を異端と言う者も天国に行く事ができない。新天地証拠幕屋聖殿以外は、自分たちが教団と教会の名称を恣意的につけたものだが、新天地証拠幕屋聖殿は、神様とイエス様が約束された国と聖殿であり、約束通り造られたので、新天地十二支派は、約束の民族であり、約束の天国である。

 悪魔でなくて、どうして天国を嫌うだろうか?新天地という言葉を大統領が言っても、国民が言っても、聖徒が言っても、誰が言ったにもかかわらず、良い世を造るというものを迫害する事は、悪魔の思想でなくて、どうしてそうするだろうか?
一時、改宗牧者の群れがMBC PD手帳と一緒にあらゆる偽りを作り出して、新天地を埋葬しようとして、自分たちがした行為を新天地になすりつけたが、結局、訂正報道、反論報道によって彼らの偽りと腐敗が明らかになったように、新天地を悪い所、異端だと言った者たちと彼らの偽りの行為も永遠に全世界に宣べ伝えられるだろう。
 良いものを悪いと言って、偽りを作り出して、選民を埋葬しようと呪う者が悪魔でないならば、誰が悪魔だろうか?追放される者は、悪魔とその所属の牧者である。
 最近まで韓基総がチェ○○牧師を異対委(異端対策委員会)の委員に立てて、異端鑑別師として活動させ、彼を通してたくさんの異端を造って来た。韓基総は、そのようなチェ牧師を今になっては、最高の悪質な異端と言った。そうならば、韓基総がチェ牧師を通して造った異端たちはまことの異端なのか、異端ではないのか?聖なる所(聖地)を造る事も好まず、約束の牧者保恵師も、新天地も異端と言う韓基総の教理は、何か?
 一時、キリスト教の一部の牧者たちが携挙すると、日にちまで決めて大騒ぎをした。その携挙がその時間に成し遂げられただろうか?このような偽りを話した者たちは、異端ではないのか?新天地で、李萬熙(総会長)の血と肉を食べてのみ救いがあり、 李萬熙の名で祈ってのみその求めるものを得る。」と主張して追い出された申氏に、韓基総は、伝道師の職分を与えて、セミナーの講師に立てて、新天地に対して偽りのあかしをさせたので。韓基総と申氏は、同じ思想を持った霊ではないだろうか?韓基総は、めちゃくちゃにあらゆる雑な鳥が集まるバビロンではないか?(啓18:2参考)

 まことの信仰人は、聖書の真理で話さなければならない。人の教権で真理を押さえつける仕打ち、お金で解決しようとする仕方は、神様の聖霊の働きではないという事が確実である。新天地は、真理で勝利した。既成教会に真理がなく、腐敗したので、聖徒たちが新天地に押し寄せて来る事が、新天地が真理で勝利した証拠であり、また、新天地の聖書公開討論会の議案に回心教の牧者が一人も応じなかった、それが、新天地が真理で勝利した証拠である。
 今日、聖書の御言葉で新天地に勝利できず、迫害する事は、初臨の時の牧者たちと長老たちがイエス様の真理に勝利できず、迫害によって対抗した行動と同じ現状である。新天地は、神様の約束の国である。新天地に反対すれば、天国に行く事ができない。信仰人が真理から離れるならば、七つの悪霊が入って来ると言われたように(マタ12:43~45参考)、今の信仰世界が未信者よりも七倍ももっと悪いという事を見せて下さっているのではないか?今の信仰世界は、啓示録18章のように、腐敗して、非真理に酔ったので、腐敗した信仰世界は、イエス様の啓示の御言葉で再び生まれなければならない。



 真理と天国と永遠の命を望む聖徒は、新天地に出て来て(啓17:1418:4参考)、信仰の自由を探して、啓示の御言葉を受けて(マタ11:27、啓1:1~222:16、啓10章参考)、望みに至る事を祈っている。アーメン。

新天地、新しい天と新しい地(新天地)

新しい天と新しい地(新天地)
 (本文:啓21章)


 新しい天と新しい地とは、何を言ったのだろうか?「新しい天」は、新しい幕屋(聖殿)を言ったのであり、「新しい地」は、新しい幕屋の肉体(聖徒)たちを言ったのである。
 啓示録21:1に、「新しい天と新しい地を見ると、以前の天と以前の地がなくなった。」と言う。文字通りならば、青空の天空と地球がなくならなければならないし、新しく天空と地球がなければならない。
 
 啓示録13章で見たように、神様の天の幕屋とそこの肉体たちが侵害されてなくなったので、これは、すなわち、神様がいなくなった事を言っている。神様から消えた事を言っている。啓示録6章に、天が巻き物を巻かれるように消えてなくなり、地(山と島)がその場所から移され、太陽・月・星が暗くなって落ちたので、天と地がなくなったのである。これが本文で言ったように、以前の天と以前の地がなくなった事である。
 創世記1章でも、新しい天と新しい地を創造する時、以前の天と以前の地があって(創11~2)、啓示録でも先天がなくなって、後天の世界があるようになる事を知らせて下さった(啓67章、1314章)。
 モーセが幕屋とその中の器具も天(霊界)のものを見て、その通りにこの地に造ったので(出25:940)、モーセの幕屋がこの地の天であった。そして、イエス様も天のものを見てそのようにこの地に創造したので(ヨハ5;19~20)、霊的イスラエルの幕屋は、この地の天の幕屋である。それで、啓示録13章の幕屋を「天」と言った(啓13:6)。幕屋(教会:聖殿)を。なぜ、天と言うのか?選民を太陽・月・星と言ったので(創37:9~11参考)、太陽・月・星がある所(幕屋)が天になるのである。

 初臨のイエス様が「預言者も預言も律法もバプテスマのヨハネまでである。」と言われた(マタ11:13、ルカ16:16)ように、再臨の時の霊的イスラエルの幕屋(教会)と牧者と預言も啓示録13章の道を備える幕屋の七人の使者の時までである。初臨の時の肉的イスラエルが先天時代であり、イエス様によって始まった霊的イスラエルが後天時代であったように、再臨の時は、イエス様の初臨の時から啓示録の道を備える七人の使者の時(霊的イスラエル)までが先天時代になって、啓示録成就の時の再び創造された十二支派(霊的新しいイスラエル)が後天時代になる。

 啓示録6章とマタイの福音書24章で、天の太陽・月・星が啓示録8章のように侵害されて暗くなって落ちたと言ったので、これは、すなわち、選民の滅亡を意味する。先天の霊的イスラエル(イエス教会、キリスト教の世界)が腐敗して、サタンが啓示録13章のように、選民を滅亡させたのであった。滅亡された選民は、異邦のサタンの群れ(バビロン、啓17章)に捕らわれて、捕虜になったのである。
 ノアの時、ロトの時とイエス様の初臨の時のように、今日の霊的イスラエルが腐敗したとしても、自分たちは神様の中にいると思って、また、正統であると思っているが、太陽・月・星月に落ちたように、その所属は、天ではなく、地なのである。このように、霊的イスラエルは、マルコの屋根裏部屋で聖霊によって始まって(使2章)、2千年が経た今日、肉(地)に戻って、サタンの世界になったのである。しかし、これを知る者がなかった[世人何知]。

 この時、神様は、モーセの時とイエス様初臨の時のように、今日の腐敗した霊的イスラエルを終わらせて、約束の牧者を通して新しい天の国、新しい民族を創設された。すなわち、啓示録12章の太陽を着た女が産んだ子とその兄弟たちがサタンの牧者と戦って勝利する事によって霊的新しいイスラエルの国が創造されたので、これが「新しい天、新しい地」、すなわち、新天地である(啓211)。時は今、新天地時代であり、この時から新天紀時代が始まったのである。

 今、世の宗教を診断してみよう。新約の預言について知っている事もなく、神様の約束を守る事もなく、お金と権威のために先を争って、互いに噛みつき、つかみあって、争っているのではないか?信仰よりお金であり、信仰より権威、すなわち、教権ではないのか?ここに神様とイエス様が共におられるだろうか?
 このような時、神様がイエス様の流された血で人々を贖って、また、その血で洗って、新しい神様の国と天民を創造されるので(啓5:9~107:9~14)、これは、約束された預言(啓示録)通り成し遂げられたのである。
 新天地時代が開かれる前に、十二支派が創造される前に、救われる所はなかった。天国の民である新天地人になろうとすれば、啓示録に記録された全ての御言葉を加減なく守らなければならない(啓22:18~19参考)。新天地、すなわち、神様の新しい国であり、神様が永遠に共におられる天国であり、新天地人は、神様の家族である。ここの聖徒たちが信仰の望みを成し遂げた者たちである。



 これを信じない者は、神様を信じない者であり、信じる者は、神様とその御言葉、すなわち、約束を信じる者であり、救いと永遠の命を得る者である。アーメン!