2015年7月24日金曜日

新天地、まことの光とやみ

まことの光とやみ
(本文:ヨハ1:1~5 核心)



 聖書で言う光とやみは、何を言っているのだろうか?
 世には昼と夜があり、昼は光であり、夜はやみである。聖書が語った光とやみは、世の昼と夜を言ったのではなく、目に見える世の昼と夜にたとえた霊的な昼と夜を言ったのである。昼、すなわち、光は、神様のいのちの御言葉を言ったのであり、夜、すなわち、やみは、神様のいのちの御言葉がない無知、すなわち、知識がない事と、非真理、世の言葉などを言ったのである。

 これを聖書的なあかしで見るならば、新約の啓示録5章に、「神様の封じられた本は、天上天下に見る者がない。」と言い、旧約のイザヤ29章には、「封じられた本の意味をわかる者がなく、人の戒めで教えた。」と言った。
 旧約の封じられた本の御言葉を開いて、受けて食べた方は(エゼ3章、マタ11:27)、神様の名で来られたイエス様(ヨハ5:43)お一人だけであり、新約の御言葉を開いて、受けて食べて(啓10章)、主の名で来られた方は、新しいヨハネだけである(ヨハ14:26, 19:1022:16
参考)。
 イエス様と新しいヨハネを通して啓示を受ける者以外には、神様も、イエス様も、天使も、神様の御心も、聖書も、預言が成就された事もわかる者がない。啓示を受けた事と受けない事、これが光とやみであり、その差である。これを使徒ヨハネは、ヨハネの福音書1:5で、「光はやみの中に輝いていて、やみはこれを悟れなかった。」と言った。

 創世記1章に、神様が水の上(世、ダニ7:317)で光(御言葉を持った人)に出会って、水の中に天(大空)を造られて、陸、すなわち、地を造って、種を持った木を生えさせた。これが、すなわち、天地創造であった。一つの世代が腐敗した時(エレ4:23~28)、創1章のように、再び創造する過程があって、第一テサロニケ5:1~9に見たように、昼(光)と夜(やみ)の子どもがいると言ったので、これがどうして自然界を指して言われた御言葉だろうか?

 これは、一つの世代が腐敗する事によって、新しい世を創造する過程を自然界にたとえて説明したのである。神様の名で(ヨハ5:43)、光で(ヨハ12:46)来られたイエス様は、全ての民たちの罪の身代わりとなられ、天の福音を伝えて行かれた。そして、離れて行かれから2千年になった。光であられるイエス様が言われた御言葉を見ると、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、の間に行なわなければなりませんだれもくことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」と言われた(ヨハ9:4~5)。

 光として来られたイエス様が行かれるならば、光のない夜になる。歴史の中で振り返ってみると、ヤコブの肉的イスラエル12支派が分かれたように、イエス様の十二弟子たちのキリスト教世界が別々に分けられて、互いに恨む事は、昼ではなく、夜である。このような腐敗の中でカルヴァンは、教権を握って、イエス様の啓示と戒めを捨てて、自分流の教法を造って、自分の教理を認めて改宗しない者たちを虐殺し、自分の教団である長老教を立てた。韓国の長老教は、日帝時代、日本の天皇の神に先に礼拝した後、神様に礼拝した。これが、どうして、啓示録13章に出て来る竜の群れ、獣に刻印を受けて拝む事と違うと言えるだろうか?歴代の神様の国の人々が、異邦の神に礼拝するので、その時ごとに神様に呪われて滅びた。カナンの部族とソロモンを見よ。

 第7回キリスト教言論フォーラムであかししたように、「韓基総の根は、三選改憲を支持する保守勢力を結集させようとする金某氏の政治的計画による保守キリスト教徒たちの結集である。」、「韓基総は、1989年に造られた大韓イエス教長老会を主とする諸教団が会員に加入した改新教教団の連合会である。」と言った。その長老教がカルヴァンのように教権で教勢を行使するのが、今の韓基総の主流ではないだろうか?長老教は、悔い改めなければ、みんな滅びるだろう。韓基総の所属は、どんな神(霊)に仕えているのか、聞いてみたい。そして、韓国のパリサイ人ではないだろうか?韓基総の権勢は、異端を造るおあし念仏ではないだろうか?お金があれば牧師にもなって、韓基総の会長にもなるという事である。韓基総は、お金を好むパリサイ人と(ルカ16:14)違いがないと思う。お金を好むパリサイ人は、蛇であり(マタ23:2933)、イエス様を十字架にかけて、その弟子たちを虐殺した者たちである。

 今日も韓基総の教法に従順して改宗しなければ、監禁して、お金をもらって強制改宗教育をして、自分たちの蛮行を他人に押し付けて、甚だしくは、改宗しないと殺人までさせた事もあった。これをどうして受け入れる事ができるだろうか?これがイエス様の戒めだろうか?
 彼らがなおも新天地イエス教を憎むのは、新天地が啓示の御言葉で聖書に精通して、真理の聖霊が共にいるからであり、新天地が自分たちの善悪の実を食べないからであり、新天地が自分たちが間違って伝えた解釈(注釈)を偽りだと指摘するからだと考える。これはまるで偽りの盗人の世界に義人が入った事と同じである。どうして彼らが新天地をそのまま置いておけるだろうか?

 しかし、神様の真理の聖霊が新天地と共におられて、天の12軍団以上になる天軍が共におられて、勝利に勝利を重ねているので、まことの光を見て万国が新天地に集まって来るのは、神様の法が霊的シオン山にあり、いのちの新しい御言葉が新しいエルサレムの証拠幕屋から出て来るからである。



 誰でも新約の啓示の御言葉を受ける者は、天国と永遠の命を得るだろう。アーメン!!

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