2015年7月6日月曜日

新天地、天から来た生けるパン

天から来た生けるパン
 (本文:ヨハ6章)



本章が言っている三つのパンは、何だろうか?

1.五つのパンと二匹の魚の奇跡

10-15節の核心:大麦のパン五つと魚二匹で5千人が食べて、残ったものが十二のかごにいっぱいになった。このパンと魚は、世にあるもので、イエスが祝福して祈られる事によって多くなった。これは、奇跡であった。

22-29節の核心:この光景を見た者たちは、熱心にイエス様を探して、イエス様は、彼らに、「あなたがたがわたしをしているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて腹したからです」と言われた。続いて、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のためにきなさい」と言われて、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と言われた。

イエスが5千名を食べさせたこのパンは、肉体の食物であり、朽ちる食物であった。

2.モーセが与えたパン、すなわち、マナとうずら

モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民たちが荒野で食べたマナとうずらは(31節)、モーセが与えたものではなく、神様が与えられたものであり、これは肉体の食物であり、朽ちる食物であった。このマナは、イスラエルの選民がカナンの地に入って、彼らが自ら地の産物を食べる時まで神様が彼らのいのちのために下さった(ヨシ5:10~12)。しかし、そのパンを食べたが、彼らは死んだ(49節)。

3.天から下って来た生けるパン

イエス様は、ご自身が天から下って来た生けるパンだと言われて、この生けるパンを食べる者は永遠に生きると言われた(47~50節)。そして、天から下って来たパンは、イエス様であり(51節)、イエス様の肉と血を食べる者は世の終わりによみがえると言われた(54節)。

天から来たパン、イエス様の肉と血は、何であり、どのように食べるべきものなのか?そして、それを食べた者がいるのか?
神様が御言葉なので(ヨハ1:1)、神様の血と肉は、神様の御言葉である。イエス様も御言葉(Ⅰヨハ1:1)なので、イエス様の血と肉はイエス様の御言葉である。イエス様は、旧約を成し遂げられて(ヨハ19:30)、新約(新しい契約)を約束された(マタ26:26~29、ルカ22:16~20)。約束された新約を信じる事がイエス様の血と肉を食べる事である。イエス様の血と肉は、肉の食物ではなく、霊の食物である。それゆえ、肉は何の益ももたらさず、霊はいのちを与える食物である(ヨハ6:63)。血と肉がイエス様の肉体ならば、肉の食物になるが、御言葉なので、肉ではなく、霊の食物なのである。
また、イエス様がご自身を天から下って来た生けるパンと言われた事も(51節)、啓示録の使徒ヨハネのように、天で聞いて見た啓示を持って来られたので、天から来たパンと言われたのである。
天のパン、すなわち、イエス様の血と肉である御言葉は、父の中にあって、その御言葉を息子イエス様に与えられて(ヨハ5:26)、下さったこの御言葉がいのちと光なので(ヨハ1:4)、この御言葉を受けて食べれば、墓のような自分の中の死んだ霊が、再び生きるのである。人を木に比喩するならば、いのちの御言葉であるまことのぶどうの木であるイエス様は(ヨハ15:1)、いのちの木になって、その所属の聖徒は、いのちの実になる。
旧約時代のモーセの時のマナと、また、イエス様が下さった大麦のパンと魚は、肉の食物であり、朽ちる食物であって、天から来たパンであるイエス様の啓示は、朽ちない永遠のいのちの食物であった。聖徒が食べて永遠に生きる事のできるまことの食物は、天から来た啓示の御言葉である。神様も、イエス様も、天国も御言葉がある所にあり、永遠のいのちも御言葉がある所にある。

イエスが行かれた後、その血と肉を食べる事ができず、再び来られる(再臨)によって食べるようになり(マタ26:29、ルカ22:18)、罪の赦しのために流された血は、啓示録で言った新しい国が創造される時、その効力があるようになる(啓5:9~10)。イエス様の御言葉を心において、その血と肉が自分自身の中にあるようにしよう。

啓示録の御言葉と成し遂げられた実像の啓示は、今日、天から下って来た生けるパンであり、この生けるパンは、今日の約束の牧者、新しいヨハネが啓10章でのように受けて、私たちに伝えている。このパンは、イエス・キリストの啓示なので(啓1:1)、イエス様の血と肉が、また、永遠に生きる食物である生けるパンである。このゆえに、啓示録(預言)と、その成し遂げられた実像を加減せず、受けて(啓22:17~19参考)心に置く事が、イエス様の血と肉であるパンを食べる事になって、永遠のいのちを得るようになる。これが、新約が約束した救いである。 

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