2014年11月20日木曜日

新天地、罪と祭祀

罪と祭祀


罪には原罪と遺罪と自犯罪がある。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む(ヤコ1:15)。罪の赦しのための祭祀にはモセの律法的な祭祀と、イエスの十字架による罪の赦しのための祭祀がある(ヘブ10:118)。罪の根源は、被造物であるエデンの園のケルブ(天使長)が神に背き、に成りましていたことから始まり(エゼ28:1219)、この罪を犯した天使の、肉界でアダムとエバを惑わしたことによって罪が存在するようになった(創3章)。そこの彼らの罪がその子孫たちを通じて今日まで遺してきた。義であられる神は罪人と共にいることが出ないので人から離れ去られた(創6:17)。神離れられた世は、罪を犯した天使である魔が治めるようになり、死が王になった。罪の報酬が死であること(ロマ6:23)を思うと、モセの律法では罪を除くことは出ないということは、罪の代が死であることが分かる。


初臨のイエスの自由律法はモセの律法を完全にするものであった。モセの律法的な祭祀で捧げる(雄牛と山羊)の血は罪を除くことが出なかったが、イエスはご自身の体をただ一度だけ、永遠な祭祀の捧げ物として捧げられたことで、罪人を聖なる者とし、完全にされた(ヘブ10章)。それゆえ、イエスが十字架にかかる事で罪が解決され、離れて行かれた聖が弟子たちに臨まれた。それでは、罪が解決されたので、死がその時からなくなったのか?違う。それならば、十字架の道でも死に勝つことは出ないということか?それも違う。


それでは、どうしたら死がなくなるのか?


約時代に神が共におられた預言者たちも殉し、新約時代に聖が共におられたイエスとその弟子たちも殉した。この殉者たちは第一の復活にる(啓20:46 考)。問題は聖を受けて福音をえながら殉したのか、殉せずに一般人として生きて死んだのかということだが、これは神がご存知だろう。


はイザヤ書1424節で「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。」と誓って仰った。このように神、種を蒔くことを約の預言者(エレミヤ)に預言され(エレ31:27)、初臨の時、イエスが種を蒔かれ(マタ13:24)、イエスが蒔かれた種を穫すると約束なさり(マタ13:30)、再臨の時である啓示の時に鎌を持って穫なさる(啓14:1416)。これを見ると、神の御心は種を蒔くという預言で終わらず、種を蒔いた事で終わるのでもなく、穫して新しい歌で印を押す事で終わる(啓14:15)。


このようにイエスが十字架を負われた事で罪が解決されたのではなく、十字架を負われたその目的と結論は啓示の成就の時に完成されるということである。イエスはマタイの福音書26章でご自身の血で新しい契約を結ばれながら、父の御る時、流した血(新しいぶどう酒=啓示の御言葉)をことになると仰い、その時まではの糧であり、いのちの御言葉であるご自身の血と肉(ヨハ6:5157)の代わりにぶどう酒とパンで祝いなさいと仰って(ルカ22:1620、Ⅰコリ11:2325)昇天された。


それではイエスが流された血は、いつ、どこでそのするのか?これは啓示の時にその血(啓示の御言葉)で贖って神と祭司長にされ、またその血で洗った白い衣を着た群れが民として救われる。それは2千年前流された(イエスの)血が啓示の時に、神の新しい御である12支派の創造に使われるということである。この新しいが完成されると、そこに神が臨まれ、また臨まれることで死も悲しみも苦しみもなくなると仰ったので(啓21:14)、啓示の成就の時、イエスの十字架の血で死に打ち勝って初めて本の姿である生になり(創2:7)、永遠のいのちがあるようになる(啓20:46考)。


ここで私たちが知らなければならないことは、エリヤとモセとイエスにはこの地に肉体がないが、彼らが生きて化した姿(神体)を弟子たちに見せた(マタ17:18、マコ9:28)。今日、啓示の御言葉によって印を押された肉体も殉を着て肉(神人)合一体になって彼と共に住み、主と共に天で住むようになる。この人はイエスの血で罪が赦され、神の種と御によって新しく生まれた、新しい被造物に化したとして(ヨハ3:5、Ⅰペテ1:23)、第一の復活にって永遠に神とイエスと御使いたちと共に天で住むことになる(啓20:46)。それゆえ、罪の赦しは唯一イエスの十字架の血の祭祀でだけ解決される。


まことの信仰人は神の御言葉である聖書を基準として信仰をしなければならないし、聖書の御言葉を信仰の道にしなければならない。そして神の御言葉がいのちであることを知らなければならない(ヨハ1:14)。ホセア書66節で、神は「いけにえと全のいけにえより、神を知ることを喜ぶ。」と仰った。この御言葉は異邦人に仰ったことではなく、イスラエルの選民に仰ったことで、その中でも特に牧者たちに仰った御言葉である。ヨハネの福音書8章でユダヤ人たちが神を父よと言っているので、これを聞いたイエスはユダヤ人たちに「神があなたがたの父ではなく、魔があなたがたの父だ。」と仰い、その証は彼らが魔のようにりを言っていることであった(ヨハ8:3244)。


それでは、まことの神とまことの神がお遣わしになった者を知ることが出件は何であるのか?初臨の時は、イエスの望み通りに啓示を受け入れることであった(マタ11:27)。そして永遠のいのちとは、まことの神、神が遣わされたイエスキリストを知ることである(ヨハ17:3)。


新約時代である今日、信仰人たちは多い。しかし、まことのイエス、イエスが遣わされた者を知ることが出件はヨハネの啓示10章の'新しいヨハネ'の望み通りに啓示を受け入れることである。新しいヨハネを通じて啓示を受け入れる者たちはイエスの十字架の血で罪が赦され、罪が赦されて神の御的新しいイスラエル)である十二支派にして救われる。


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