2015年7月13日月曜日

新天地、主の祈りと神の国とその義

主の祈りと神の国とその義

(本文:マタ6章)


主の祈りのまことの意味は何であり、神の国とその義は何だろうか?

 イエス様は、弟子たちを選ばれた後、マタイの福音書5章で聖徒が守るべき戒めを教えて下さった。この戒めの中に主が教えて下さった主の祈りがあり(マタ6:9~13)、まず、求めるべき事、すなわち、神の国とその義を求めなさいと言われた(マタ6:33)。マタイの福音書6章の中での核心的な内容は、この二つを指摘する事ができる。

イエス様は、偽善者たちが祈る事と施しをする事をご覧になって、弟子たちに偽善者たちのように人に見せるために施しと祈りをしてはいけない、隠れた所におられる神様に祈りなさいと言われた後、祈りの題目を教えて下さった(マタ6:1~13)。

この主の祈りは、現在、多くの教会の聖徒たちが礼拝を終える時、暗唱している。口では主の祈りを祈っているが、主の祈りの意味もわからない。そして、主の祈りの通り行わなければ、神様にうそをつく者になる。主の祈りをしたならば、その御心通り行ってのみ、神様が聞いて下さるだろう。

主の祈り解説

1)9節:天にましますわれらの父よ、御名をあがめさせたまえ。
 
①天にまします

神様がおられる「天」は、どこだろうか?

啓示録4章の神様の御座がある所は、霊界の天である。初臨当時、神様がイエス様に来られた時は(マタ3:16~174:17)、霊界の天の天国が、この地に来たのである。

また、天国が来たこの地の「幕屋」を「天」と言った。その理由は、太陽・月・星がある所が天であるように、神様の選民イスラエルを天の太陽・月・星と言ったので、神様の幕屋が天、すなわち、霊的天なのである(創37:9~11、啓13:6、啓12:1、啓15:15、マタ13:24参考)。

②われらの父よ。

イエス様は、ヨハネの福音書8章に、神様を「父」と言うユダヤ人たちに、「あなたがたの父はまことの神様ではなく、偽りを話す悪魔」と言われた(ヨハ8:41~44)。その理由は、彼らが偽りを話す悪魔の種で生まれたからである。

神様を父と呼ぶことができる資格は、神様の「種」、すなわち、神様の御言葉(ルカ8:11)で生まれなければならない。神様の種で生まれた者だけが、神様を父と呼び事ができ、父なる神様も神様の種で生まれた者たちを子と認められる。悪魔の種で生まれた者がまことの神様に父と言ったとして、神様が父になるのではなく、また、彼が神様の子になるのでもない。

③御名をあがめさせたまえ

神様は、天地創造主であられ、罪と関係がなく、義といのちの光であられ、義と不義について判決を下す審判の主であられる。そして、万国と万物の主人であられる。神様は、まことに聖なる方であられ、傷もない方であられる。造られた天地万物の被造物は、当然、聖なる神様に賛美をささげ、神様を仰ぐのが道理である。

2)10節:御国を来らせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。

①御国を来らせたまえ

天の霊界の国がこの地の天の幕屋に臨んで来られて一つになる事と、離れて行かれた神様が再びこの地に創造された国(幕屋)に臨まれる事を求める祈りである。

②御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ

モーセも(出25章)、イエス様も(ヨハ5章)、天のものを見て、この地にそれと同じに成し遂げられた。このように、主の再臨の時にも、悪魔と戦って勝利した牧者が、啓示録21章と4章で見た聖なる都新しいエルサレムを啓示録3:12のように成し遂げられる。この働きを悪魔の集団は妨害するが、神様とイエス様は、喜ばれるだろう。私たちも、啓示録19章のように、喜び楽しむだろう。

3)11節:われらの日用の糧を今日も与えたまえ

モーセの時は、エジプトから出て来たイスラエルの民がカナンの地に入って地の産物で自立する時まで、彼らに、毎朝、天から降るマナを食べさせて生かされた(出16:14~36)。しかし、イエス様は、モーセが与えるマナは食べても死んだが、イエス様が与える「朽ちない食物」は、食べて永遠に生きる食物であり、その食物は、天から下って来た生けるパン、すなわち、「イエス様の血と肉」だと言われた(ヨハ6章)。そして、イエス様は、第一ヨハネ1章で言った「御言葉}であられる。

イエス様が下さる日用のまことの食物は、啓示の御言葉である。この啓示は、啓示録5章の神様の右の手にある封じられた本をイエス様が啓示録6章で開いて下さった「天から来たマナ」で、永遠に生きるまことの食物である。まことの食物であるこの啓示は、啓示録10章のイギンジャ(啓23章参照)、すなわち、新しいヨハネを通してのみ、受ける事ができる。

4)12節:我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ

⇒14~15節の解説を参考

5)13節:我らを試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ。国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。

我らを試みに会わせず

これは、イエス様が再臨の時にあるようになる事件をご存知なので言われた御言葉である。マタイの福音書24章に見ると、国と国、民族と民族が敵対して争って、この時、多くの人が惑わしと試みに陥って、聖徒を死ぬ所に捕まえて行くので、悪が盛んになって、滅亡者が聖なる壇上に立つようになる。このような試みに会わせないで下さいと祈りなさいという御言葉である。

②悪より救い出だしたまえ

滅亡者が選民を打って飲み込む時に、この滅亡者から救って下さいと祈りなさいという御言葉である。

③国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり

当然、権威と栄光が神様に永遠にあるべきであることは、神様が天地万物の創造主、すなわち、王の王、主の主であるからである(Ⅰコリ15:28、エペ4:6、Ⅰテモ6:15)。創造された被造物は、創造主に世々限りなく栄光をささげるのは、当然である。

⋆14~15節:もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

イエス様が「赦し」に関して次のように語られた。

マタイの福音書18:21~35に見ると、主に一万タラントの借金を免除された者が、自分に百デナリの借りのある者を赦さず、借金を返すまで牢に投げ入れた。この事実を知った主が一万タラントの借金を免除された者を呼んで、「私があなたの借金を免除してあげたのに、なぜ、百デナリの借りのある者の借金を免除してあげず、牢に投げ入れたのか?あなたも借りを返すまで牢に投げ入れる」と言った。

これが赦しについて教える教訓の御言葉である。ほかの人を赦さなければ、自分も赦されない。

33節:神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

神の国はどんな国だろうか?もちろん、天国である。この天国は、目に見えたり、触ったりできない。比喩で言うならば、天国は、種でできた木に臨む(マタ13:31~32)。また、この天国は、イギンジャに臨む(啓3:12)。神様の国(天国)は、天でなるごとく、この地にも、それと同じに成し遂げられて、ここに天国が臨むので、求めなさいと言われた国が、この天国である。この国は、まさに、印を押された霊的新しいイスラエル12支派(啓7章、14章)である。ここに神様も御使いも共におられるので、私たちが探して求めるべき国が、まさに、ここである。そして、ここに啓示の御言葉(啓10章、14:1~5参考)と信仰があり、これが、すなわち、私たちが求めるべき「その義」である。



聖書66巻で言う神様の御心と信仰の目的は、天のように、この地でも創造される霊的新しいイスラエル12支派であり、ここが私たち信仰人の行くべき所である。

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