新しい事、正統と、古くなった異端
アダムの時からイエス様の時までの以前の世界と新しい時代の新しい世界を見る時、以前の世界は、古くて腐敗した異端であり、新しい時代は、再び創造された新しい事で、正統であった。伝統的な古くなった以前の世代が新しい時代(世代)を見て異端と言う事は、自分たちの腐敗性と偽りを隠そうとする事に過ぎない。以前の世界が腐敗しなかったならば、神様が新しい時代(世代)の事を創造される理由があるだろうか?
イエスがユダヤ教に来られて新しい事をされた。これが異端なのだろうか?党を作った事だろうか?神様がモーセの律法の世界が腐敗して契約を守れなかったので、新しい事をすると約束されて(エレ31:22,27,31参考)、約束の牧者イエス様を通して成し遂げられた(ヨハ19:30)。これは、党を作ることでもなく、異端でもない。
そして、イエス様は、早々とペテロ(名前の意味:岩)を通して聖殿を立てる事を約束されて(マタ16:18~20)、その上に聖殿を立てた。すなわち、ペテロの上に立てたイエス教(教会)であるカトリックの聖殿である。カトリック教会から出て来た改新教は、今、幾つにも分かれてしまった。これは、党を造った事になり、まことの異端の行為である。
異端という言葉は、「異なるの異、終わりの端」という字を書く。これは、神様のもので始まって、終わりが異なるという事、すなわち、イエス様のものとは異なる教理を伝える偽りの牧者とその教団を指していう言葉である。使徒パウロは、ガラテヤ書1章に、「私たちが伝える福音以外に他の(異なった)福音を伝えたらのろわれる」と言った(ガラ1:8)。そうして見ると、聖書を基準にする教理が正統になり、聖書と異なった福音を伝える者が異端になる。
韓基総所属の一つの教団では、新天地イエス教がマタイの福音書24章だけを終末論だと言ったから異端であると言った。我が新天地は、マタイの福音書24章だけを終末論だと言った事はない。これは、彼らが新天地を異端にするために、パリサイ人のように偽りの言葉を作り出して言った言葉である。また、私たちを異端と言って迫害する韓基総は、パリサイ人のように(ルカ16:14)、お金を好んで、お金で教権を買ったり売ったりしていたので、あらゆる悪の根になったのである(Ⅰテモ6:10)。まことの異端は、まさに、このようなものである。そして、韓基総所属の教団では、強制改宗教育と、そのために聖徒を監禁、休学、休職を強要、そして、改宗教育に応じない時、精神病院に監禁など、悪辣な行いをして、一人当たり何十万ウォンずつを改宗教育費としてもらって、甚だしくは、改宗に応じないと、長老教の祖先カルヴァンのように、殺人に至らせる事もあった。これは、人の行いではなく、聖霊の行いでもない。これこそが異端の行いなのである。
悪を善に、白を黒に、まことを偽りに、偽りをまことに、正統を異端に、異端を正統に、真理を非真理に、非真理を真理として伝える事が韓基総の教権主義であり、信仰で始まったのにもかかわらず、韓基総は、キリスト教ではなく、まことのキリスト教を滅ぼす働きの中心となる働きをした団体と言えるだろう。
新天地は、韓基総所属の教団など、キリスト教会に何度も公開討論を提議して、また、聖書に関する40個の質問をしたが、いまだに答えがない。彼らが、私たちの提議や質問に応じるならば、韓基総が私たちと一つになったと誤解されるかと恐れているのだろうと思う。我が新天地は、イエス様が聖書に約束された新しい事が成し遂げられた新しい天、新しい地の証拠幕屋聖殿である。これは、聖書に約束した新しい国の聖殿である。
聖書の預言は、成し遂げられる時、信じさせようと、前もって話したものであり、この預言通り成し遂げられる時、信じなさいと言ったのである(ヨハ14:29)。なぜ、信じないのか?イエス様の預言と成就が異端だと思って信じないのだろうか?聖書通り成し遂げられた事が新天地イエス教証拠幕屋聖である。人が作った教名ではなく、神様が聖書に前もって約束された教名である(啓15:4~5)。聖書通り成し遂げられた事が間違いだろうか?聖書の意味をわからないのに、どうして成し遂げられた事をわかる事ができ、また、信じられるだろうか?心に悪と偽りが入っている人は、悪と偽りを行って、偽りの言葉を話すし、善と真理が入っている人は、善行をして、真理を話す。
なぜ、新天地に日に日に多くの人々が集まって来るのだろうか?それは、韓基総が新天地を異端だと全世界に叫んだので、知覚がある聖徒たちが、かえって、確認後、新天地に来て、真理を学んで、悟って、信じるようになって、自分の教団の虚構性をわかるようになったからである。そして、彼らは、自分の教会の牧者のために祈っている。この人々が真理に飢え渇く人々をひっきりなしに連れて来るので、その数が多くなって、日に日に人々が雲のように沸き起こって来る。これは、神様とイエス様と新天地の勝利であり、万々歳である。
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