2015年7月6日月曜日

新天地、創世記1章

創世記1




モーセが神様に聞いて記録した「創世記」の「創世」の意味は、初めて始まった世代、すなわち、神様が共におられる人間世界の始まりを意味するのである。
霊の世界が肉の世界を創造し(創1:2627)、本章の記録は、肉の世界にたとえて霊肉の世界の再創造を知らせたものである。聖書の歴史から見たところ、時代別に創造があり、各時代の創造は、創世記1章の順理に従って創造される。アダム以降、ノアの世界の創造もそうであり、ノア以降、モーセの世界の創造もやはりそうであった。
エレミヤ書14章で見た創造は、イエス様の時に成し遂げられる創造であり、これは創世記1章と同様であった。

新しく始まる創造は、以前の世界が背教したことによって異邦に捕らわれた後(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、イエス様の時、再臨の時)にあり、時代ごとにそうであった。

聖霊の御言葉(聖書)は、聖霊の目と心でその意味がわかるようになる。世の肉の目と経験ではわからない。
詩篇78篇で創世から隠された事をたとえ話(比喩)で語って現すと言われ、その約束通りにイエス様が来られて天国の秘密をたとえ話(比喩)で現した。しかし、再臨の時は、そのたとえ話(比喩)が明らかに現れると約束された通り、その「事実」を明らかに話すようになる。その時はアモス書37節のように、その秘密を見て聞いた事をあかしする時である(Ⅰコリ13:9~12)。


▪第一日(15節)

初めに、神が天と地を創造した。*地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。*そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。*神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。*神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

この言葉の霊的な意味を調べてみよう。
第一日に地も天も創造したという言葉がない。ところで、混沌(形がなく)として、空虚(何もない)である地は何だろうか?そして、やみという天は何だろうか?そして、神様が動いていた所である水の上(水面:水の表面)はいつ創造されたのだろうか?

第一日に「地」と「天」と「水」を創造したという御言葉がなく、それらが現れ、そして、光も水面で探したのである。また、地は、なぜ混沌として、なぜ空虚であったのか?天は、なぜやみであったのか?光がなぜ水面にあるようになったのか?創造したこともないのに、地と天と水があり、太陽も創造したという言葉がないのに、光があった。

私たちが見ている実際の太陽と月と星は水面ではなく、天空にある。ところで、天におられる神様の神(霊)が水面を動いておられたと言った。これは肉的なものとして見る時は、道理に合わない。

天地を創造されたという御言葉は、初めて創造するという意味ではない。
地が混沌としたという事は、創造した地、すなわち、肉体(土でできた人、創2:7参考)の考えが異なったもの(教理)と混ざったので、混沌としたと言われたのである。地が空虚であるという事は、共におられた神様の神(霊)が聖殿になった人の心(Ⅰコリ3:16)から離れて行かれたので、人の心が空いているという意味である。
やみが水面(大いなる水の上)にあるというのは、太陽・月・星、すなわち、選民が天の所属から落ちて肉体になった事であり、聖霊で始まったのに、何かによって肉に戻った事を言っているのである(ガラ3:3)。
神様は、神(霊)が水面を動いておられたといったが、「水面」は実際の水面ではなく、世を言っているのである(ダニ7:317)。神様の神(霊)が水面を動いておられたという事は、世の中で光を探すためであり、光を探したという事は、光である御言葉を持っている者(真理を所有している牧者)を探したという事である。
やみに光があったので、夜があり、昼があると言われたのである。すなわち、無知で暗い心霊(Ⅰテサ5:4~8参考)だけ満ちていた時、真理の所有者一人を光として選ばれる事、これは神様が再創造を始められるのに一番先にされる事である。

エレミヤ書4章と 第一テサロニケ人5章、ヨハネの福音書115節にも上記のような御言葉があり、ヨハネの福音書1246節にもあり、マタイの福音書24章とヨハネの啓示録6章にもある。これらは創世から隠されていた事をイエス様が比喩で現したのである。見よ!


▪第二日(68節)

ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。*こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。*神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。

神様がやみの中の水面で光(牧者)を探された後、第二日に水の間に大空(天)を造られた。大空の上の水と、大空の下の水とを区別された。
これは世の水ではない。天がどうして水の間にあるだろうか?水は世であり、大空は世の中に創造した天(幕屋)を言ったのである(幕屋は海の船と同じ。例:ノアの船)。上の水は天から来る啓示の御言葉を、下の水は世の言葉を比喩した御言葉である。これをもう一度言えば、滅亡によってなくなった以前の世界から光の一人の牧者を探して立てた後、この世の中で大空、すなわち、幕屋、「船」を造られ、上の神様の御言葉と下の世の言葉とを区別される事を言われたのである。


▪第三日(913節)

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と仰せられた。するとそのようになった。*神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。*神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。*それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。*こうして夕があり、朝があった。第三日。

第一日には光を、第二日には大空を造り、第三日には天下の洪水のような水が一所に集まり、陸(かわいた所)が現れる。「陸」は地と名づけ、「水」は海と名づけられた。神様が土で人を形造られたので(創2:7)、第三日に現れた「陸」は選民を示し、ひいては彼らの幕屋を示す。第三日に現れた「陸」と第二日に造った「天(大空)」は同じ幕屋で、その相違点を言えば、第二日に造った天が第三日に世に明らかにされるという事である。
神様が、地が植物と草と果樹、すなわち、様々な聖徒たちを芽生えさせられた。

一人の牧者がイエス様のように「光」と天の「聖殿」になり、地、すなわち、世に現れた肉体たち(啓21:1参考)で草と植物と木のような人を芽生えさせられた。


▪第四日(1419節)

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。*天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。*それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。*神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、*また昼と夜をつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。*こうして夕があり、朝があった。第四日。

神様が大きい光る物と小さい光る物とを大空に造られ、その光る物が日のため、季節のため、年のために役立つようにされた。大きい光る物(太陽)には昼をつかさどらせ、小さい光る物(月)には夜をつかさどらせ、また星を造られ、それらを大空に置かれ、昼と夜をつかさどらせ、光とやみとを区別するようにされた。

ここで問題点を確認してみよう。

第二日と第三日に天と地とを創造された。(啓21章には以前の天と以前の地が過ぎ去り、新しい天と新しい地とが創造された事を知らせられた。)では、第一日の天と地と水面とは何だろうか?

第一日に光があり、第二日に造った大空には太陽・月・星がなかった。ところが、第三日に植物と草と木があった。これは第一日の光によってあるようになったと見なければならないだろう。そして、第三日まで夕があり、朝があるので、第一日、第二日、第三日だと言われた。

これらの事実が自然界の光と昼と夜であるならば、第四日に天の大空に造られた太陽・月・星(大きい光る物、小さい光る物、星)は何だろうか?また、この時から日と季節と年とが成されるという事は何だろうか?では、天には太陽が二つもあるという事だろうか?また、どうして天が水の間にあるのだろうか?

創世記1章の創造は、自然界で見る時には道理に合わず、自然界にたとえた霊的世界の創造で見る時には道理に合っている。

これから第四日の創造について調べてみよう。

一つの時代の天と地(以前の天と以前の地)が混沌として、やみであった時、一人の牧者(光)を探して(第一日)幕屋、すなわち、天(大空)を造り(第二日)、それによって下の水の世の人は世(海)に区別され、世の中に現れた地(肉体)を通して良い植物、すなわち、聖徒たちをいるようにしたので(第三日)、これはアダム、ノアの時と同様である。

第四日は、このように集まった聖徒たちで太陽・月・星、すなわち、天国の御座の系列を組織したのである。この時から神様の御国の年が成されて数えられる。しかし、創造の始まりは第一日からあるようになったのである。この天の国が天地と昼夜をつかさどるようになる。


▪第五日(2023節)

ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。*それで神は海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。*神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」*こうして、夕があり、朝があった。第五日。

水は生き物の群れが、群がるようになれと言われ、また鳥は地の上、天の大空を飛べと言われ、魚と鳥とをその種類に従って創造して祝福され、海と地とにふえよと言われた。イエス様は鳥を霊に、魚を人に比喩された。そして生めよ、ふえよと言われたので、世界各国に広がるようにされたのである。


▪第六日(2431節)

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。……*神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。*神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」……*こうして夕があり、朝があった。第六日。

神様が地の獣(生き物)と六畜(家畜)とはうものとを造られ、人を造られた。モーセは、天で見たものをこの地にその通りに造ったと言った。啓示録4章に見ると、霊界の天の四つの生き物の姿は、しし、雄牛、わし、人間である。神様が地の獣( 生き物 )と六畜(家畜)とはうものと人とを造られたのは、天に成るごとく、この地にもそのように創造されたのであり、四つの生き物、すなわち、天の軍隊(天軍)のような組織をこの地に造られたのであった。

また、神様は、神様の姿と形通りに人を創造された。
神様の姿と形に似た人、すなわち、神様と同じ品性を持った人になるためには、神様の御言葉と聖霊によって新しく生まれなければならない(ヨハ3:5、Ⅰペテ1:23)。
そして、造られた人に「生めよ。ふえよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地のすべての生き物を支配せよ。」と言われ、全ての草と実を結ぶ木とを食物として与えられた。これで人は万物の霊長になり、神様の御国を相続する相続者になった。

これは第六日の創造である。

神様は創造主であられ、創造は、初めの創造があり、再創造がある。モーセの時の創造は、アダムとノアの後、あるようになった。
霊的な創造は、肉的な創造にたとえて記録された。霊的な創造について比喩、たとえで語られたのは、それが天国の秘密だからであった。神様がモーセに語られて記録された創世記1章には隠されたものがあると詩篇78篇で言われ、隠されたものをイエス様が比喩で説明されて(マタ13:3435)、時になると、はっきりと告げると言われた(ヨハ16:25)。

創世記1章のような内容を旧約と新約と書信書でも見る事ができる。神様は、以前の世界が腐敗して終わるので、新しく創造され、創造はどの時代でも創世記1章のように成し遂げられる。しかし、天と地は永遠にある。

今日、啓示録21章に、新しい天と新しい地とを創造する事も、以前の天と以前の地がなくなる事も自然界の天地ではなく、 太陽·月·星がなくなる事も自然界の太陽·月·星ではなかった。

創造は霊的に新しく生まれた者たちによって再び構成する創造である。神様のまことの御心が記録された聖書全書を完全に悟って知ることで創世記1章がわかるようになる。

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