主の再臨と世の終わりの前兆
(本文:マタイ24章)
本文の核心は、主が臨まれる事と世の終わりの前兆についての御言葉である。
イエスが「主の御名によって(ヨハ14:26)来られる方にという時まで、あなたがたは今後決して私を見ることはありません。」と言われた(マタイ23:39)。
1節:イエスがエルサレムの聖殿から出て行かれる時に、弟子たちが宮の建物を指しながら、イエスに紹介しようと近寄って来た。
2節:この時、イエスは、この聖殿が全部崩される事を知らせた。
3節:これを聞いた弟子たちがオリーブ山におられるイエスのみもとに来て、「いつそのような事が起き、主の臨まれる事と世の終わりにどんな前兆があるのでしょうか」と質問した。
4-5節:イエスは答えられて、「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われた。
6-8節:そして、イエスがその前兆について語られ、「戦争のことや戦争のうわさを聞き、国は国に民族は民族に敵対して立ち上がり、この事でききんと地震が起こります。」と言われた。
事件、すなわち、戦争の場所は聖殿であり、戦う二つの国は肉的には同じ国の人であり、宗教的には同じキリスト人である。彼らは、表面的には同じキリスト人のように見えるが、その中の霊は異なる。二つの国はどこだろうか?一つは神様の聖殿と聖徒の国であり、もう一つは悪魔の教会と教徒の国である。これは、旧約の時、神様の使者である預言者とイスラエルの牧者が戦った事と同じで、初臨の時、同じイスラエル国のイエス様とパリサイ人が戦った事と同じである。
主の再臨の時、前で話した二つの国が戦う理由は、教権を支配するために互いに「正統」と「異端」を前に出して戦っているのである。
この事によって聖徒の心が揺れるようになり(地震)、神様はここに御言葉を与えないので、御言葉がないききんがあるようになる(アモ8:11-12)。
9-15節:この時、聖殿の人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合い、不法がはびこり、愛が冷たくなる。すなわち、多くの人が敵を阻む事も聖殿を助ける事もせず、試みに陥って敵を助け、人々を互いに裏切り、不法がはびこるようになり、これによって敵、すなわち、滅亡者が勝利して、聖殿の聖徒が滅亡され、聖なる聖殿に滅亡者が初臨の時のように立つようになる(マタイ23章)。
この事実(預言)が全ての民族にあかしされるために全世界に宣べ伝えられたなら、このように霊的イスラエルと聖殿の終わりが来ると言われた。これが、聖殿が倒れる世の終わりの前兆である。
弟子たちの三つの質問に対するイエス様の答と同じ事(7-12節)が成し遂げられるためには、前で話したような事(4-5節)が先に起こらなければならないと、6節で語られたのである。
この戦争、すなわち、戦いが世の国と国の間の戦いならば、どうして滅亡者が聖殿に立つだろうか?
実際の世の国々の戦いであれば、その国政の要職の位置に立つだろう。
16,20節:この時、ユダヤの聖殿にいる者たちは、安息日のように、冬のように休まず、山に逃げなさいと言われた。この山はどこだろうか?
イエスが、この時をノアの時、ロトの時と同じだと言われて(マタ24:37~39、ルカ17:26~30)、ノアの時もロトの時も山に行って救われた。本文の山は霊的シオン山であり、 この山にイエス様が立っている(啓14:1)。ここが救いの場所である。
滅亡者が立ったこの神様の聖殿に救いがあるのか、逃げた所、すなわち、イエス様が立っているシオン山に救いがあるのか?判断してみなさい。
17-19節:この時、屋上にいる者は家の中(滅亡者が立った聖殿)の物を持ち出そうと下に降りてはいけないと言われた。
屋上と家の中のものは何だろうか?
屋上は天であり、天には太陽・月・星があり、この太陽・月・星はヤコブ、すなわち、選民イスラエルの事である(創37:9-11)。そして、家の中のものは滅亡者の教理である。この時、天に属した聖殿の聖徒は、滅亡者の教理を取りに(聞いて学びに)聖殿に行ってはいけないという御言葉である。
滅亡者が聖なる聖殿に立ったこの時、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女だと言われた。
パウロは産みの苦しみをすると言い(ガラ4:19)、テモテをわが子と言い(Ⅰテモ1:2)、堅い食物ではなく乳を与えたと言った(Ⅰコリ3:1-2)。これに見ると、身重の女は御言葉の種を持つ者であり、乳飲み子を持つ女は御言葉を食べさせる者である。すなわち、聖殿の牧者を指して言われた御言葉である。彼らが神様の御国、聖殿を奪われて、説教ができず圧迫されるので、これが「災い」である。
21-22節:滅亡者によって踏みにじられる期間を選ばれた者たちのために少なくすると言われた。
本来の期間は70年であり(ダニ9:2、ゼカ1:12)、少なくされた期間は42ヶ月である(啓11:2、13:5)。
23-28節:主の臨まれる事は、いなずまのように来られると言ったので、霊で来られる事を暗示された(ルカ17:24)。
29-31節:この時、太陽・月・星が暗くなって落ちると言われた(啓6:12~13)。これは聖殿の聖徒と牧者が侵害されたことを意味する(啓8:12)。
イエス様は、夜に来られると新約に7回も話された。その「夜」は、霊的な太陽・月・星、すなわち、霊的イスラエルが天から落ちる事によって霊的夜になった事を言っているのである。
この時、イエス様が御使いたちと共に来られて東西南北にあるイエス様の畑、すなわち、イエス教会に行って収穫を始められる。
収穫されるイエス様を初臨の時ように、また異端という者は悪魔の所属の牧者である。
32-35節:31節までの事があるようになれば、主が戸口まで近づいていると知りなさいと言われた。この言葉を信じるならば、戸口に収穫しに来たイエス様と御使いたちを迎えなければならないだろう。
36-44節:その日とその時は、イエス様も御使いたちも知らず、父だけご存知であると言われ、人の子の臨む事は、ノアの時のようだと言われた。
この時、時に応じて食物を分け与える者に主の全ての財産を任せると約束された。
この時の「時に応じて分け与える食物」は何だろうか? マタイの福音書24章が成し遂げられる時は、マタイの福音書24章を預言した御言葉とその成し遂げられた実像をあかししてくれる御言葉が、この時の霊的糧食である。預言と実像を信じる聖徒は、この「時」を知って、「この時に時に応じた食物を分け与える者」に会う事が、すなわち、救いを得る道になる。
口でだけ主に近づくのではなく、まことに約束の御言葉と実像を信じる事が主を信じる事である(マタ7:21)。
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