2014年10月13日月曜日

新天地、新約(新しい契約)マタイの福音書13章

新約(新しい契約)マタイの福音書13

創造主、神様はアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス様を通して契約を結ばれた。アブラハムと結んだ契約はモーセを通して成就され(創15章、出12章)、旧約の預言者たちを通して結んだ契約はイエス様を通して成就された(ルカ24:44、ヨハ19:30)。預言は成就される時に、見て信じろと、予め仰せられたものである(ヨハ14:29)。 
新約とは、成就された旧約ではなく、新しい契約の預言である。イエス様の以降、信仰人たちが信じて守るべき約束は新約である。新約聖書に約束された預言は、主の再臨の時に成し遂げられることであり、成し遂げられる時に見て信じることによって救われる。新約を読んでもその意味が分からないなら、成就される時に(その実像を)見ても分からず、分からないため信じることもできないだろう。そして、新約を読んでその意味を全部分かったとしても、成就されたことを見ても信じず、その御心通りに守らなければ救われない(マタ7:21、ヨハ14:23参考)。神様は悪に捕らわれている人々を救うために、成就される事を予め契約(預言)された。それ故、救いのための預言のことばを信じ、その御心通りに行なってこそ死からいのちへと救われることになる。 
神様とイエス様が旧約を成就されたからと言って(ヨハ19:30)、神様の御心と目的がすべて成就されたわけではない。旧約聖書のエレミヤ31章で預言された「新しい事」と「二種類の種を蒔く事」、「新しい契約」が成就されたとしても、それで目的が終わったではない。それは初臨の事であって、新約聖書にイエス様の再臨の時にすべき事を預言されたが、それが、すなわち新約である。主の再臨の時にすべき事は、初臨の時に蒔いた種の実を収穫して神様の国と祭司長を創造するである。初臨の時にイエス様の蒔かれた種は、神様の霊の種、すなわち御言葉であった(ルカ8:11、ヨハ6:63)。ことばの種を蒔いた所は、イエス教の聖徒たちの心の畑であり、教会であった(マタ13:24、Ⅰコリ3:9)。収穫の時は世の終りであり、収穫の働き手はイエス様と御使いたちである(マタ13:3739)。種を蒔いた畑、すなわちイエス教には二種類の種が蒔かれた(マタ13:2430)。二種類の種の中で、神様の種(御言葉)は神様の子となり、悪魔の種(言葉:非真理)は悪魔の子となる(マタ13:3739)。
収穫の時は世の終りであると言われた。世の終りとは、霊的イスラエルの教会(世界)が主の以降、約2千年になった主の再臨の時に終わるということを知らせた御言葉である。2種類の種を蒔いた畑、イエス教は終末をどう迎えるのか?その預言は何か?イエス教の聖徒たちはこのような事について考えたことがあるのか?イエス様の約束のことばを信じない者でもイエス様を信じる者であると言えるのか?本当にイエス様の約束のことばを信じる者ならば、イエス教の終末に何があるのかを調べてみて、その言葉と御心通りに信じるだろう。天の種を蒔かれたイエス様は、収穫の時があると言われ(マタ13:24303643)、その時は啓示録が成し遂げられる時である(啓14章)。二種類の種の蒔かれている畑(イエス教)では、まず毒麦を火で焼くため束にする。それから、この時に御使いが、かまを持って穀物を収穫して父の家である倉に持っていく(マタ13:30、啓14章)。毒麦は悪魔の子であり(マタ13:3839)、毒麦を束にする者は自分の牧者であり(マタ23:13参考)、束にされた所は自分の教会である。この収穫の時、自分の教会の牧者の言葉に縛られている者が神様の種によって生まれた子なのか、自分の教会から倉へ収穫されて行った者が神様の種によって生まれた者なのか?自分の教会と牧者、その教会に残っている者が救われるのか?火で焼かれるのか?そして、収穫の時、収穫の働き手の言葉を信じてついて行くべきなのか、自分の牧者の言葉を信じて教会に残っているべきなのか?聖徒は終末に神様の約束の御言葉と自分の牧者の言葉、その中で誰の言葉を信じてついて行くべきなのか、冷静な判断をしなければならないだろう。
神様は約2,600年前に、種を蒔くことをエレミヤを通して約束され(エレ31:27)、その時から約6百年が経ってイエス様に来られて神様の御言葉の種を蒔かれたことによってその約束を成し遂げられた(マタ13:2425)。そして、約2千年前に蒔かれたその種の実を、今日、新約聖書の約束通りに御使いと共に盗人のようにイエス教に来られ、収穫して天国の倉に持って来ている(マタ24:4344、啓3:3、啓14:114)。再臨された所と倉はどこなのか、知っている者がいないので、聖書に約束された所を探してみよう。
啓示録14章には神様の御座があり、24長老と四つの生き物(御使いたち)がいる。ここは霊的シオン山である。霊的シオン山には、印を押された初穂、144千人がいる。これは12支派、すなわち国と祭司長のある所である。ここに収穫された者たちが御座の前、24長老と四つの生き物の前とで新しい歌(啓示録の預言の成就された実像を証しする啓示の言葉)を歌う。この新しい歌は、地球上の中で唯一12支派のあるシオン山だけで聞くことが出来、学ぶことが出来る。約束した収穫の時は、啓示録の時であり(啓14:1416)、ここに収穫された初穂は真理の言葉によって生まれた者たちである(ヤコ1:18、Ⅰペテ1:23)。この実は啓示録14章と22章の御言葉通りにいのちの種(ヨハ1:14、ルカ8:11)によってできた、いのちの木12の枝に結ぶ実である。
神様が約2,600年前、エレミヤに新しい事と種を蒔く事、新しい契約を約束された御心と目的は、啓示録11節のすぐに起こるはずの事(啓122章)をしもべたち(啓7:3)に示すことであり、このしもべたちは啓示録7章と14章の印を押された初穂である12支派144千人である。この12支派が、すなわち神様の新しい国と祭司長たちである(啓1:65:910)。これが神様の御心であり、目的である。

新約時代の聖徒は、だれでも啓示の御言葉によって印を押され、新しい被造物として生まれ変わった者だけが神様の国、12支派にあずかる事が出来る。この以外には、いくら偉そうに、よく信じているふりをしても神様の国(天国)、霊的新しいイスラエル12支派、すなわち天民にはなれない。神様の御心と新約の言葉を悟って、御心通りにした者だけが救われる(マタ7:21)。

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