2015年10月20日火曜日

新天地、比喩した海と船と船長

比喩した海と船と船長
 (本文:啓18章)


本文に記録された海と船と船長と商品は、何をたとえた比喩だろうか?そして、その実体は、何だろうか?神様が詩篇78篇に「昔からのなぞをたとえ話をもって語り、後の時代に語り告げよう。」と約束されて、時になってイエス様が来られて、創世から隠された事どもを比喩で語られて、比喩でなければ何も語らなかった(マタ13:34)。
イエス様は、四福音書と啓示録に比喩を施されて、成し遂げられる将来の事、すなわち、天国の秘密を語られた。その中の啓示録18章の「海と船と船長と商品、すなわち、不品行のぶどう酒」について、その実像を話そうと思う。

啓示録8:8に、「火の燃えている大きな山のようなものが海に投げ込まれ、海の1/3が血になって、海の中のいのちのある被造物の1/3が死んで、船の1/3が壊された。」と言った。この船と啓示録18章の船とどのように違うだろうか?

それは、このようである。
比喩した「海」は世(ダニ7:317)であり、「船」は教会であり、「船長」は牧者である。啓示録8:8の船は、選民の幕屋教会であり、啓示録18章の船は、異邦の獣のような偽りの牧者たちの教会である。啓8章と18章は、各々選民の教会の滅亡と異邦のバビロンの教会の滅亡を知らせた御言葉である。
これについてもう少し具体的に説明する。
ダニエル7章の説明を見ると、3節、17節に海の獣を世の王(牧者)だと言った。海は、世であり、海から出て来た獣は、人であった。このように、啓示録18章の海も船も船長も、文字その通りではなく、世と世の教会と牧者である。彼らが貿易(伝道)する商品は、不品行のぶどう酒、すなわち、注釈の言葉である偽りの言葉である。

使徒パウロは、第一コリント13章に「私たちが部分的に知って、部分的にあかし(預言)したが、完全なものが来る時は、異言も預言も終わって、顔と顔を合わせて見るだろう。」と言った。そして、使徒ヨハネは、ヨハネの福音書14章に「真理、すなわち、御言葉を持った聖霊が来る。」と言われて、彼が、主が語られた御言葉を思い起こさせ(ヨハ14:26)、真理の中に導かれると言われた(ヨハ16:13)。真理の聖霊(保恵師聖霊)が共におられる(啓19:1022:16~17参考)新約の約束の牧者は、開かれた本を受けて(啓10章)、啓示録1:2のように、実像を見て聞いてあかしするので、このあかしがまことである。

啓示録1718章の出現人物が啓示録1312章の人物たちであり、啓示録1516章の人物が啓示録13章の人物たちであり、彼らが啓示録2章の人物たち(ニコライ派、バラム、バラク、イゼベルなどの滅亡者)であり、啓示録23章の人物たち(背教した選民の幕屋の人々)が啓示録689章の人物たちであった。
事件(全章の事件)の現場も、啓示録23章の現場であり、啓示録1312章の現場である。これは、旧約の預言を成し遂げた現場がエルサレムの聖殿(道を備える者バプテスマのヨハネの祭壇)であったように、今日の主の再臨の時の事件も、新約の預言通り道を備える者の幕屋聖殿で起こる事件である。

啓示録8章のように、啓示録18章の聖殿、すなわち、牧者とその商品、すなわち、牧者があかしする不品行のぶどう酒(注釈の非真理)を審判する事によって偽りが判明されるので、偽りの牧者が嘆くのである。
偽りの言葉は、神様の啓示ではなく、偽り者の悪魔が与えたものであり、この偽りの言葉を受けて信じる者に悪魔の霊が入ったので、これが悪魔と結婚する事であった(啓18章)。彼らの組織と教理が審判を受ける事によって商品がなくなって、商品がないので、貿易をする事ができず、嘆き悲しむのである。
悪魔の商品を受けられないので、悪魔との結婚も終わる。
これが啓示録18章の船と船長と商品についての審判である。


今日、約束の牧者(啓23章参考)イギンジャを通して(啓10章)啓示を受ける者以外には、この事実を知る者がなく、再臨のイエス様と、またイエス様が遣わされた者を知る者がない。人の戒めよりも啓示の御言葉でイエス様と彼の遣わされた者を知って、啓示を受けて印を押され、救いに至る事を祈っている。


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