十字架とその目的
(本文:ヨハ12:32、34、ヨハ13:18
(啓12:11、5:9~11、7:14、ヘブ10章))
神様の子、イエスが十字架を負わなければならない理由は何だろうか?
イエスが天に上げられるのは、全ての人々をご自身の前に引き寄せるためだと言われた(ヨハ12:32)。のみならず、イエス様は、祈られる時、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください(マタ26:39)。」と言われた。
イエスが、必ず十字架を負わなければならない理由は、ヘブル書10章に記録されている。すなわち、雄牛と山羊の血(律法的ないけにえ)では人の罪をなくす事ができず、罪のないイエス様の血でのみ、人類の罪を赦す事ができるので、十字架にかかられたのである。
十字架は、罪人が負う最高の刑罰である。イエス様が十字架にかかられたのは、自分の罪によるのではなく、人類(世)の罪の身代わりとなってかかられたのである(ヨハ1:29)。私たちが善行をして忠誠を尽くすとしても、私たちの罪は永遠にあるのであるが、イエス様の血で私たちの罪を赦されたので、私たちが主の中で罪を赦されて、罪のない者になる。このゆえに、主が罪から私たちを解放させて下さって、国と祭司長にされると啓示録1:6で語られた。イエス様は、過越しの祭の夜、弟子たちと血で新しい契約を立てられた。その契約の内容は、「今から父の国が臨む時までぶどうの木(イエス、ヨハ15:1,5)から出るものを食べない。」と言われ、ぶどう酒とパンでイエス様の肉と血の代わりにして記念しなさいと言われたのであった(ルカ22:14~20)。イエス様のまことの血と肉は、父の国が臨むイエス様の再臨の時、食べるようになるという事を新しい契約として約束されたのである。義人が罪人の罪の代価として十字架の重刑を代わって受けたので、罪の代価を払う事になり、借りを返す事になるので、血を与えて罪人をあがなった事になる(啓5:9~10)。罪を赦されたこの人々がイエス様に属して、神様の国と祭司長になって、イエス様に属して永遠の天国の王になる。そして、イエス様は、王の王となられる。啓示録7章に、144,000人が印を押された後、押し寄せて来る白い群れたちがいるので、彼らは、イエス様の血でその衣を洗って白くされたので、罪がない選民になる。前で話した者たちが天国の王(祭司長)と民である。これが、イエス様が血を流された目的であり、神様の約束であり、御心である。イエスが十字架で血を流されたと言って誰でも罪を赦されるのではなく、ただ、約束を信じる者だけが罪を赦されて天民になる。これ以前の牧者(王)たちとその所属の教徒たちは、天民に該当しない。
血を流して私たちを愛されたイエス様は、罪を赦された私たちの中に住むようになり、私たちは、信仰によってイエスの中で共に住むようになる(ヨハ14:20、ガラ2:20、啓3:20参考)。罪人の救いは、いつあるようになるのか?啓示録の時、イエス様の血で戦って勝利する事によってこの地に神様の国と救いがあるようになり(啓12:1~11)、霊界の天国がここに臨む事で神様が御心とされた回復が完成される(啓21:1~7)。これは、失われたアダムの世界(楽園、天国)が復活されたのである。しかし、この時(啓示録の時)、サタンとその所属の牧者と教徒たちは、罪を赦されず、共に地獄の火にあずかるようになる(啓19:19~20、20:1~3参考)。啓示録の預言が全て成し遂げられる前に、この言葉を信じる者は、救われるようになり、信じない者は、信じない罪によって地獄行きになる(啓21:8)。
初臨のイエス様が約束された血と肉を(ヨハ6:51~58)食べる事ができるその時は、いつだろうか?この時は、主の再臨の時である。主の再臨の時は、新約が応じて成し遂げられる時、すなわち、啓示録成就の時、その血で戦って勝利して(啓12章)、その血で罪を赦されて国と祭司長と白い群れになるようにされた(啓1:5~6、5:9~10、7:9~14)。2千年前、過越しの祭の夜、新しい契約を立てられて、十字架で流されたその血は、啓示録成就の時、効能があるようになり、その血で神様の国、十二支派を創造するようになった。
神様の息子であられる義人イエス様が十字架にかかられて血を流された目的は、ご自分の民の罪を赦すためなのであり、神様の国と祭司長と聖なる民、白い群れの創造のためなのであった。イエス様が血を流される事で、この二つの問題が解決されて、また、神様の望みが成し遂げられたので、失った国(地球村)を探すようになり、サタン、竜を捕らえて閉じ込めて、万国を統治するようになったのである。これが、神様が収穫して印を押されて、神様の国、十二支派を新天地に創造される働きなのである。
誰でも、今日、罪を赦されて、天国の民になろうとする聖徒は、悔い改めて、新天地に出て来て、救われる事を祈っている。アーメン!
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