2016年1月22日金曜日

新天地、過越しの祭の羊と救い

過越しの祭の羊と救い

本文:ルカ22:1~20、出12:1~14
(マタ26:17~29、Ⅰコリ5:7、ヘブ11:28、ヨハ6:48~595:9~10


過越しの祭の羊は、何を意味しているのだろうか?

イエス様は、ご自身を天から下って来た生けるパン(マナ)と言われ、先祖たちが荒野でマナ(パン)を食べても死んだが、このパンは食べれば死ぬ事はないと言われた(ヨハ6:31~3546~51)。このパンは、イエス様であり、イエス様の血と肉を食べる者は、命があり、永遠に生きるが、イエス様の血と肉を食べなければ、命がないと言われた(ヨハ6:53~58)。
「過越し」という言葉の意味は、「過ぎて行く」という意味である。モーセの時、イスラエルの民たちが出エジプトする前に、天の御使いたちが下りて来て(ヘブ1:14参考)、エジプトの長子たちを全て殺す時、一歳になった小羊の血を門柱に塗って、羊の肉を食べたその家には、御使いが入らず、過ぎて行く事で、死なず、救われた(出11章、12章)。
イエス様を小羊と比喩した事は(ヨハ1:29)、モーセの時、食べて救われた小羊をたとえたものであり、イエスがご自身の血と肉を食べてのみ、救いがあると言われた事も、過越しの夜に羊の血と肉を食べる事で救われるようになる事を知らせた御言葉である。
もし、旧約時代のエジプトのイスラエルの民たちが神様の御言葉を伝えるモーセの言葉を聞いて守らなかったならば、その日の夜、救いを得る事ができただろうか?また、今日、新約の神様とイエス様の御言葉、すなわち、過越しの祭の羊、イエス様の血と肉を食べなくても救いがあるだろうか?救われるためには、イエス様の御言葉に従順して、その御言葉通り小羊イエス様の血と肉を食べなければならないし、食べる事によって永遠の命があるようになるのである。

本文(ルカ22:1~20)で、イエス様が過越しの祭の夜、愛する弟子たちに言われた御言葉を記憶しなければならないし、また、悟って、信じて、その御心通りしなければならない。イエス様は、ご自身をぶどうの木と言われて(ヨハ15:1~5)、ぶどうの木から出るもの(ぶどう酒、すなわち、血と肉)を父の国で新しいもので食べる時まで食べないと言われ(マタ26:29)、ご自身の血と肉の代わりにぶどう酒とパンで記念とするようにされた(ルカ22:19)。(記念として食べるぶどう酒とパンは、イエス様のまことの血と肉ではない。)

過越しの祭に、救いのために流された十字架の血(血と肉)は、いつ、どこで、誰が食べて、救われるようになるのか?
この血は、再臨の時、イエス様の御言葉通り立てられる神様の新しい国で、啓示録の印を押された十二支派が食べて救われるようになる。このためにイエス様が血を流されたのであり、この血で新しい契約を立てられたのである。新しい契約が成し遂げられる再臨の時、イエス様は、御使いと共に来られるようになって、審判をされる時、小羊イエス様の血と肉を食べる者が約束通り救われるようになる(啓14章参考)。啓示録に見たように、イエス様の血で神様の国と祭司長にして、その血で白い群れ、天民にされるので(啓5:9~107:9~14)、初臨の時の過越しの祭の夜に、「父の国で食べる」と約束し、流された血は、再臨の時の神様の新しい国十二支派に戻って来る。
肉的イスラエルは、イエス様、すなわち、その血と肉を信じも、受け入れもせず(ヨハ1:11参考)、かえって、イエス様を十字架にかけて殺した。イエス様の弟子たちは、その時から今日が来るまで、この事、すなわち、イエス様の血で神様の新しい国十二支派を創造される事を約束の福音として地の果てにまで伝えて来たのであった(マタ2:14)。主の再臨の時であり、啓示録の印を押された新しい国十二支派が創造される時には(啓7章)、イエス様の初臨の時から再臨の時までの先天の世界(霊的イスラエル)は、啓示録21章の約束通り終わって(教会の終末)、新しい天、新しい地、すなわち、新天地時代が到来するのである。

ノアの時(創9章参考)のように、肉的イスラエルは、小羊の血と肉を食べて救われて、エジプトから出て来て、国を立てた(カナンのイスラエル)。この肉的イスラエルは、バプテスマのヨハネの時に終わって、イエス様が来られる(初臨)事で霊的イスラエル(キリスト教の世界)が始まった(マタ11:13、ルカ16:16、ヨハ1:11~13参考)。この霊的イスラエルは、どのようにして終末を迎えるようになり、この終末の時、どこで小羊の血と肉を食べて、救われて、どこに出て、新しい国十二支派を立てるようになるのか?

啓示録13章、17章、18章で見たように、万国が不品行のぶどう酒(サタンの教理)で倒れて、悪霊の国、霊的バビロンになって、民たちがバビロンに捕らわれるようになる事で霊的イスラエルは終末を迎えるようになった。再臨の主は、約束の牧者と共に、霊的イスラエルの民たちが捕らわれた悪霊の国、霊的バビロンに行って、モーセの時のように、選び出し、召し出される(啓17:1418:4)。モーセの時、小羊の肉を食べて、エジプトから出て来て救われたように、この時(バビロンの審判の時)にも小羊イエス様の血と肉を食べさせて、食べる者は、審判を受けず、そこから出て来て救われるようになる。悪霊の国、霊的バビロンでイエス様の血と肉を食べて、救われて、シオン山に出て来た者たちが神様の新しい国十二支派を立てるようになる。このゆえに、イエス様の血と肉を再臨の時に食べる事を、新しい契約として約束されたのである。
初臨の時、肉的イスラエルの民たちが蛇である律法学者、パリサイ人たちに捕らわれていたように(マタ23章参考)、再臨の時である今日も、霊的イスラエルの民たちが悪霊の国、霊的バビロンの教権の下に捕らわれている(啓17章、18章)。この捕らわれた者たちの罪の価をイエス様の血であがなって、神様の国と祭司長にするのである(啓5:9~10)。それゆえ、今日、イエス様の血と肉を悟って食べなければ、救いがない。誰が知恵があって、この事を知って、誰が悟りがあって、この時代と自分をわかるだろうか?ただ、見て聞いた者だけが、これをわかるだろうし、これを見て聞いて伝える者の言葉を聞いて悟る者は、死のバビロンから命である新天地に出て来て救われるだろう。これを悟るためには、まず、約束の御言葉に対する勉強が必要である。

イエス様の血と肉は、どのように食べるようになるのか?口で食べるのか、耳で聞いて食べるのか?神様は、霊であられ(ヨハ4:24)、イエス様は、霊であられる神様の子で、神様の種で産まれた(マタ1:18~21、ルカ1:28~35)。神様の種は、神様の御言葉である(ルカ8:11)。父なる神様が御言葉である(ヨハ1:1~4)ように、子イエス様も御言葉の種で産まれたので、御言葉である(Ⅰヨハ1:1)。御言葉であるイエス様の血と肉は、御言葉であり、イエス様、すなわち、天から下って来たパンも(ヨハ6:51)御言葉である。この御言葉を食べる事は、口で食べるのではなく、耳で聞いて食べるのである。霊(神)の血と肉は、すなわち、御言葉である。神様が神(霊)であられるので、神の種で産まれた子は、神の子孫である(使17:28~29)。御言葉を受けた者を神と(ヨハ10:35)言った事も、御言葉が神だからであり、イエス様の血と肉は、神の血と肉、すなわち、御言葉なのである。イエス様を太初(創造の初め)の御言葉と言われた事も、朽ちない食物である御言葉を指して言われた御言葉であり、朽ちない種で新しく生まれる事も(Ⅰペテ1:23)御言葉の種で新しく生まれる事である。

イエス様の新しい契約の血を食べるという事は、約束の御言葉を受けて、心に置く事を言っているのである。イエス様が流された血は、私たちの罪の価を支払ったのであり、罪から解放させる血であり、私たちが食べなければならない血は、イエス様から流れて来た永遠のいのちの食物(御言葉)である。これを心に刻んで、守る事が、食べる事になって、食べる事で心にあるようになる。



約束の国、新天地は、約束の血である過越しの祭の羊の血、すなわち、イエス様の血でできた神様の国と民族である。このためにイエス様が十字架にかかられて、血を流された。我が新天地人は、この血で罪から解放されて、神様の国と祭司長と天民になった。アーメン!

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