人の戒めと啓示の違い
1.旧約における人の戒めと啓示のと違い
● 本文:イザ29:9~14、ハバ2:2~3、エゼ3:1~11
預言
本文(イザ29章)の神様の書物、黙示は、誰も知る者がなく、封じられた本であって、預言者と先見者たちは盲目で頭を覆われたので見ることができなかった。この状態で教えて学ぶのは、人の戒めばかりであった。神様は、「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。・・・」と言われた(イザ29:13~14)。
イザヤのこの預言は、イエス様の初臨の時に現実として現れた(マタ15章)。約束された「驚き怪しむべきこと」を再びこの民に行われるのは、定めの時に(ハバ2:2~3)黙示を開いて人の子イエス様に食べさせ、指示なさることによって(エゼ3:1~11)、マタ15章のように啓示を伝えられたのである。この時、イエス様は、子と子の望み通り啓示を受ける者のほかは、だれも父を知る者がないと言われた(マタ11:27、韓・聖)。また、ヨハ17:3には、「まことの神様を知ることが永遠のいのち」であると言われた。これは、知らなければ、永遠のいのちもないという事になる。イエス様は、神様から受け取って食べた啓示で再び伝えるよう指示を受けたので(エゼ3:1~11)、イエス様の望みは、ご自分を通して啓示を受ける事であった。
イエス様が伝えられる啓示は、封じられた本の神様の約束(旧約)通りに成し遂げた実像であり、この実像は旧約の御言葉で証しして示すのである(ヨハ14:29
参考)。しかし、当時のユダヤ人たちは実像を見ることのできない盲目(マタ15:14)となった牧者に従うものの、イエス様が証しされる啓示された実像は信じない者たちが多かった。その時、彼らがイエス様に向かって異端と言ったのは、自分たちが主張している人の戒めと、イエス様の啓示が合わなかったからであった。
この文書で知らせようとするのは、旧約の預言と初臨当時のイエス様の啓示を話そうとするわけではなく、新約の啓示を知らせようと、冒頭に旧約の啓示について先に述べたのである。
2.新約における人の戒めと啓示との違い
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本文:啓10章、啓1:1~8、啓22:18~19
約2,000年前、使徒ヨハネが見て記録した啓示録は、将来成し遂げることについての預言的な幻の啓示であって、この幻の啓示は、時になると、啓示録のように実像として成し遂げられるのである。成就する時は、新約に約束された新しいヨハネが啓10章のように啓示の本を受け取って食べ、啓示録全章の実像を全て見て、受け取って食べた御言葉と自分の見た事を、イエス様の指示通りにしもべたちに証しする。この時、新しいヨハネを通して啓示を受けた者以外は、神様も、イエス様も、また天国も、啓示録の実像も知る者がない。もし、啓示録について知っていると証ししている者がいるならば、彼は毒麦の種を蒔く者であり、不品行のぶどう酒を飲ませる者である。啓5章の封じられた本をイエス様が開いて成し遂げる前に知っているということ自体が罪であり、神様を嘘つきにしてしまう行為である。その理由は、この封じられた本は、天上天下に知る者がないと啓5:3にはっきりと記されているからである。
御言葉を信じずに自分を高くするために嘘を作り出す偽りの牧者の言葉を信じる者も災いを免れない。彼らが啓示録について証しした事は、淫婦を教皇、十本の角の獣をアジアの10カ国、竜をソ連、二万万(韓・聖)を中国、戦争を世の中の戦争と言うなど、偽りの種を蒔いたが、実はそうではない。啓6章は、2~3章の選民、背教者たちに対する審判であり、啓16章と啓18章は、13章の背教者と滅亡者たちに対する御怒りの審判である。啓13章と12章の戦争は、天の幕屋の聖徒たちと竜の牧者との戦争であり、世の国の戦争ではない。イエスの血とあかしする言葉で(啓12:11)戦う霊的戦争である。啓10章で新しいヨハネが受けた啓示は、天から来た神様の手紙であり、隠れたマナ、すなわち、永遠に生けるパンである。これにそっぽを向き、初臨のイエス様に向かって言ったように異端と言うならば、救いがあるだろうか?
誰でも今日、新約のイエス様の啓示を受けた新しいヨハネを通して啓示を受ける者だけが啓示録の預言のまことの意味を悟り、成就した霊的新しいイスラエル12支派の実像を知るようになり、救いに至るようになる。これが、神様が約束された新約であり、約束であり、救いの御心である。
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