2014年8月17日日曜日

新天地、啓示の信仰と迫害

啓示の信仰と迫害
イエス様は、旧約の封じられた本の啓示を受け(イザ29:914、ハバ2:23、エゼ123章)、子と子の望み通りに啓示を受けなければ神様を知る事ができないと言われた(マタ11:27)。ヨハネの福音書173節には、イエス様が、まことの神様と遣わされたイエス・キリストを知ることが永遠のいのちであると言われた。この御言葉によると、啓示を受けなかった者は、神様とその子イエスを知る事ができず、永遠のいのちがないということであり、神様を知らないので、獣のようになるということである(箴30:24 参考)。それゆえ、啓示を受けなければ、救いがないと見るべきであり、啓示を受けなかった者が「救われた、聖霊を受けた、正統だ」と言っているのは全て偽りである。偽りを話すことは、悪魔の霊を受けたからである(ヨハ8:44)。それは結局、自分の教徒たちをだますためである。このような者たちが聖書的な根拠もなく、自分たちと教理が違うと言って他の教団を迫害することは、愛の霊であられる神様がおられないからである(Ⅰヨハ4:78 参考)。
アンチ(anti)新天地のカフェが、インターネットに数多くの偽りの言葉を載せている。それを我々の聖徒が見ても脱落しないのは、その言葉が真っ赤な嘘だからである。それなのにも関わらず、どうしてしきりに偽りの言葉を載せるのだろうか?その理由は、自分の教会に流暢な世の言葉はあるが、神様の真理の御言葉がなく、自分の聖徒が御言葉に従って、御言葉のある所(新天地教会)探して行くので(マタ7:78 参考)、パリサイ人たち(マタ23:13)のように行かせないために惑わしているのである。結局、すでに自分の聖徒たちをだますためについた嘘をインターネットに載せることによって、再び彼らを惑わしているのである。自分に来た手紙でなければ受けとらず、受けとらなければ手紙を出した者に戻っていくように、インターネットに載せた偽りの言葉と惑わしの言葉は、それを載せた者に罪となり戻っていく。
まことの信仰人たちは、時を知らなければならない(時代の分別)。今は収穫の時である世の終りである(マタ13:39)。収穫の時は、自分の牧者より収穫の働き手の言葉を信じてこそ、倉(天国)に収穫されて行く。世の言葉には救いがなく、天から来た啓示の御言葉の中に救いがある。啓示を受けなかった牧者の下で救いを願うのは無駄なことである。イエス様は、啓示録の預言の御言葉から加減すれば救いがないと言われ(啓22:1819)、この啓示は、イエス・キリストの啓示であるので(啓1:1)、これを信じない者はイエス様を信じる者ではない。
事実を確認してみなさい。あなたたちは、啓示録に対して加減しているのか、啓示録に精通しているのかということである。啓示を受けなかったのに、「正統だ、救われた。」と言えるだろうか?啓示は唯一、一人の人にだけ与えられた(啓1:122:16、啓10章)。初臨の時、イエス様を通して啓示を受けてこそ、まことの神様と遣わされた者、イエス様を知り、それによって永遠のいのちを得ることができたように(マタ11:27、ヨハ17:3)、啓示録の時であり、再臨の時である今日、啓示を受けた新天地の約束の牧者(新しいヨハネ)を通して啓示を受けなければ、新約のまことの神様とイエス様と、今日遣わされた者(啓231512章)を知ることができず、知る事ができなければ永遠のいのちがなく、獣のようだと言えるだろう。どうして、世の言葉は好んでいながら、神様の啓示は受けないと言うのか?(ヨハ17:14 参考)それでも、イエス様を信じると言えるだろうか? 

我が新天地は、啓示の御言葉に精通し、六何原則に基づいて教え、学んでいる。ねたみと嫉妬より、迫害と呪いより、啓示の新しい歌(啓示録が成就された実像を証しする御言葉)を学び、啓示された信仰によって神様の子の霊を心に受け入れ救われる事が信仰のまことの価値だと言えよう(ガラ4:19 参考)。このために、我が新天地は祈っている。

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