2014年8月17日日曜日

新天地、永遠の天国と別れの世

永遠の天国と別れの世
世は別れである。天地は変わることなく、天の御使いたちも変わらないが、地上の万物は花びらように咲いては枯れるので(詩10315)、別れではないだろうか?未練と切なさと悲しみと苦痛とで死に行く世、植物も咲いて、種を残して枯れ、動物たちも生まれて、種を残して死んでしまう、別れではないだろうか?財産も権威も得てはなくなる、まるで一場の春の夢である。今までの長年の働きを振り返って見ても、永遠なものはなく、世の中の万事を探ってみても永遠のいのちは見当たらない。
天地の創造主であられる神様が共におられたイエス様は、この地上に来られて家もお金もなく、こじきと罪人たちと共に暮らされ(マタ9:913)、彼らの苦しみと病をいやされ、いのちの御言葉で教えられ、その一つのいのちを十字架に差し出されて、たましいだけで天に上って行かれた(マタ27章)。どうして行かれたのだろうか?天の国は、死ぬ事がなく、苦しみのない楽園であり、愛と喜びだけがあるからだろうか?世の中が悪に満ちていて生きる事ができなかったからだろうか?
神様とイエス様の教訓は、赦しと愛といのちまで与える生ける教訓であり、イエス様は、これを自ら実践して見せてくださった(マタ22:3540、ヨハ13:34、ルカ17:34ヨハ3:1416、ピリ2:58)。しかし、この世の中でその教訓は行方知れずになり、インターネットカフェに入ってみると、目を開いて見る事のできないほどの偽りと迫害と呪いの書き込みがあふれている。これが神様の戒めだろうか、悪魔の悪口だろうか?赦しと愛と祝福は行方知れずになっている。このような世の中に、どうして神様とイエス様と使徒たちが生きたいと思われるだろうか?この世の中の人々は、いつまでこのような苦しみの中で死に別れて行かなければならないのだろうか?神様もイエス様も、この世の中をよくご存じである。王子であった釈迦は、神様に生老病死のことを聞き、天が与えた答えを八万大蔵経に記録したが、わかる僧侶がいず、その文字の中で釈迦は、イエスが来れば、自分の教訓(教え)は消えた灯火のようだと言ったので、彼もイエス様が来られることを預言したわけであった。
キリスト教の聖書の啓示録に、将来の事が記録されているが、天地の間には知る者がいない。僧侶たちは、釈迦は信じても釈迦の言葉は信じず、自分の住職だけを信じ、キリスト教の聖徒たちも神様とイエス様の御言葉は信じず、自分の牧者と教団だけを信じて信仰をしている。まことの信仰とは、神様の御言葉を信じて守るべきことである。世は別れだと言えるが、神様の御言葉は、永遠であられるので(マタ24:35)別れがない。神様の御言葉は、神様のいのちの種であり、霊であり、神様であられるので、御言葉が自分にあれば神様が共におられ、自分も神の子となる(ルカ8:11、ヨハ1:14、ヨハ10:35、使17:29)。
新約の預言は、神様が再び来られる時、神の子らを集めて神様の国を創造され(啓7章)、6千年ぶりに悪魔を捕まえて底知れぬ穴に閉じ込めることによって(啓20:23)苦しみと悲しみと死のない楽園の世界、すなわち、神人合一の千年城が成し遂げられる(啓20:46、啓21:14)。別れのない世界は、千年の都であり、千年の都の家族は、永遠の御言葉がある神の子らである。これが新約の預言であり、約束である。

天の法は愛である(Ⅰヨハ4:721)。神様のように、イエス様のように、隣人を自分の体のように愛し(マタ22:3540、マコ12:2833 参考)、貧しさも苦しみも共にする愛の聖徒とまことの牧者になろう。イエス様は、国と民を救うためにご自分の体を捧げられた。私たちもその方のように犠牲を払い神様の国のために愛し合って奉仕しよう。

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